浅草神社[三社様]
で、浅草神社。社殿の色、大好き。平成8年に塗り直しが行われたらしぃのだけど、朱色も金も、模様の浅葱色やら瑠璃色のような部分も、鮮やかなのだけど深みのある色合いで、しっとり落ち着きある感じ。夕方の金色の光が優しく当たると、もぉなんとも言えないほど素敵。
そして…裏にひっそりとある被官稲荷神社…これがまた、なんともいえずいぃ感じ。鳥居や社殿の風合いが重厚でいて優しい。
ぱっと見覆屋が被さってるせいか重い感じがするのだけど、中に入ると屋根の意外な隙間から差し込む光がスポットライトみたいになってたりする。
おうちや会社が近所なら、毎日でも訪れたいわ…(2013.8撮影)
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何度となく訪れている浅草神社…なぜ今まで知らなかったんだろ???…“夫婦狛犬”
もふもふがくるくるでころんとしたかわいらしぃ姿…
朱い和傘で相合い傘なんて、なんとも素敵な演出。
また一つ、浅草を訪れる楽しみ増えたね…(2017.3撮影)
「明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・槍前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。
現在の社殿は慶安2年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年5月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民族文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。平成6年3月」境内 台東区教育委員会の解説板より
《夫婦狛犬》
「年代…不明
銘文…台座上部正面『諸願成就』、本体左側『品川町裏河岸 鈴木吉…』以降読み取り出来ず
分類…『先代江戸初め』1600年代後半〜1700年前半
体はやや小型。素朴な形で彫りも浅い。首は曲げずに正面を向きます。頭にははめ込み式の角が付いていましたが、現在は残念ながら残っていません。
神使として聖域を守る役割を持つ狛犬は、一対で置かれる事が多く、互いに寄り添い合うこの狛犬に相合い傘をさし、『良縁』『恋愛成就』『夫婦和合』の願いを込めて祀っています。」案内板より
《川口松太郎 句碑》
「川口松太郎ハ明治32年10月1日浅草今戸二生レル 昭和10年第一回直木賞受賞ノ『鶴八幡次郎』ヲ初メトシテ小説脚本二名作多ク文壇劇壇二多大ナ足跡ヲシルス 特二新派俳優花柳章太郎水谷八重子等二ヨッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨリ38年菊池寛賞受賞 40年芸術院会員 更二44年『しぐれ茶屋おりく』ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞 48年文化功労者二斜セラレル 最晩年渾身ノ筆デ連載小説『一休さんの門』ヲ脱稿後昭和60年6月9日永眠ス 行年85才 三回忌二因ミ故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲ブ
“生きると いうこと むずかしき 夜寒かな”
昭和62年6月9日
松竹株式会社 劇団新派 明治座 文芸春秋社 講談社 読売新聞社
浅草観光連盟」案内板より
《粧太夫碑》(蕊雲女史書の柿本人麻呂歌碑)
「“ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく船をしぞ思う”
有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕊雲女史である。
蕊雲は文化年間(1804〜17)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕊雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕊雲の号を贈られたほどの人物であった。
この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)8月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和29年11月、現在地に移された。
平成8年3月 台東区教育委員会」案内板より
「安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏していたとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷神社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
社殿は一間社流造、杉皮葺。創建以来のもの。間口約1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。平成4年11月」鳥居横 台東区教育委員会の解説板より
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