綾瀬北野神社[綾瀬天神]
小雨の中、久しぶりに降り立った綾瀬駅。なんか、ちょいと綺麗になってるかも。
まぁ、10年も経てば、町並みもいろいろ変わるか…って、あんま変ってないw
おぉ〜“串のこたに”も健在だぁ〜
昼間は開いてないけど…
そんな“こたに”の東へ道一本…な場所に鎮座。
天気のせいもあってか、このあたりまでくると人影無し…日曜の昼下がりなのに…
天神さまといえば、撫で牛さんですな…特に病んでるわけではないのだけど、いつもなんとなく鼻筋を撫でてしまう…
雨に濡れてツヤツヤ。美しいわ…
創建は古いようなのだけど、社殿やこの撫で牛は、平成になってからの建立らしい。
足立区の有型民俗文化財に登録されている“石祠型庚申塔”は、しっとりと素朴な風合い。
拝殿横のちょいと不思議な位置にある“手水石”…古そう…嘉永5年(1852)奉納だそうな。
さて…今日の予定は、『綾瀬三社』巡り。
ここからずずっと西、綾瀬川の方へむかって“綾瀬神社”、さらにそこから北、常磐線を越えて“綾瀬稲荷神社”へ…
天気がこれ以上くずれませんように。(2017.7撮影)
「當神社創立の儀は人皇百四代後柏原天皇の御宇紀元戴千百六拾四年永正元年秋八月にして葛西青砥村新義真言宗宝持院の僧賢空當寺の領地普賢寺村全丁歩を中興開基し薬師如来を本尊とせる養福寺を建立し本寺を別當と定む。當時この地域に天神社稲荷社大六天社八幡社の祀あり。右四社を合祀し養福寺の隣地を神域と定め社殿を建設し天神社稲荷社を奉斎し社号を北野神社と称し大六天社八幡社を境内末社に奉還し普賢寺村全域の鎮守と定む。然るに安政2年10月江戸大地震にて社殿悉く倒潰し當時氏子四十数戸にして再建し現在に至る。この間土地の発展と人類の幸福とに御加護を垂させ給ひ御神徳は四方に普く光り輝き殊に氏子の信仰は益々深まり御神威愈々髙く拜す。茲に明治百年の式典を記念し有志相挙つて燈篭一基奉献しこの碑を建立す
昭和四十三年九月 宮司 唐松銈弘識」境内由緒沿革石碑より
《撫牛のいわれ》
「天神様といえば、梅がよく連想されます。
しかしまた、天神様と牛とは古来数々の伝承から縁の深い関係があります。
例えば、天神様は牛年生まれで、亡くなったのも牛年でした。
九州に左遷されその西下の途中、白牛に身を救われたこともありました。このように天神様と牛とは史実や逸話に伝えられている通り、神秘的な御神縁があります。ですから牛は天神様のお使いとして篤く信仰されています。
そして、天神様を守り、人々をも護ることから『神牛・随牛』と称えられ、そのお陰げを横たわったおおらかな姿から頂こうと寝牛・座牛が造られるに至りました。
後年これを『撫牛(なでうし)・臥牛』と呼んで親しみをもって撫でるようになり、今では、天神様を拝んだ後に立ち寄って、良い知恵を授けて頂こうと頭を触ったり、病んだ所をさすっては傷みを取ってもらおうとするようになりました。
北野神社」境内案内石碑より
《石祀型庚申塔》
「庚申塔は庚申信仰をする庚申講の人々によって造立された塔である。
庚申とは、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)とが結び付いた60日に1回巡ってくる日や年のことを指す。
庚申の日には、人間の体内にいる三尸(さんし)という虫が睡眠中に抜け出て天帝に罪過を告げるため寿命が縮むという説が中国の道教にあり、これが日本に伝わり信仰された。庚申の夜には眠らずに過ごす守庚申に、礼拝本尊や宗教儀礼が組み込まれた庚申待が室町時代の中頃から行われるようになり、江戸時代に入ると一般的にも浸透し、各地に庚申講が結成され、供養のための庚申塔が多数造立されるようになった。庚申塔の形態、儀式は多様であり、形態は一般的に笠付型、駒型、舟型などいくつかに分類することができる。
この庚申塔は石祀型といわれ、社殿の形を模したものである。右は元禄8年(1695)、左は同13年(1700)の造立で、それぞれ「奉造立石之宮殿第六天村中庚申供養」、「庚申供養奉造立石宝殿一宇二世安楽処」とある。石祀型庚申塔は東京都内では類例を見ない珍しいものである。
平成七年三月 東京都足立区教育委員会」境内案内版より
《保存樹木 いちょう》足立区指定第292・613号
「本殿の両脇に在る保存樹のイチョウは、神社のシンボルとして遠くからでも良く目だっています。落葉等の管理には心を配っていますが、地域の貴重な大樹として皆さんのご理解を得ていつまでも大切にしたいと思います。」境内案内版より
境内社:第六天社、八幡社
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