山王稲荷神社&八坂神社・猿田彦神社
日枝神社の末社。
向かって左が山王稲荷神社、右が八坂神社・猿田彦神社(相殿)。
以下、境内由緒書きより…
「〈山王稲荷神社〉例祭:4月下午の日
稲荷の大神は古来、生成発展・商売繁昌の守り神として全国に祀られ、ここ永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬治2年4月本社山王権現が麹町より移遷されるに至り境内末社となった。
〈八坂神社〉例祭:6月7日
日枝大山咋神の祖父神、もと京橋南伝馬町の牛頭天王として、三ヶ町の鎮守で大伝馬町、小舟町と並び江戸三天王と称された。明治19年7月、末社猿田彦神社内に相殿神として奉斎された。今に祇園八坂信仰は商業・農業の守護神、病気退散の信仰が篤い。
〈猿田彦神社〉例祭:初庚申の日
萬治2年、御本社山王権現と共に奉祀されたと伝えられ御祭神は“道ひらきの神”として、また里俗の説に“山王のお使い”即ち神猿とも言われる。
《山王稲荷神社本殿》千代田区指定有形文化財 指定 昭和63年4月
山王稲荷神社は、日枝神社が万治2年(1659)麹町隼町から現在地に移されるより以前、当地が福知山藩主松平忠房の邸地であった頃、すでに邸内鎮守として祀られていたと考えられる。この地主稲荷社と現存する建物との関係は不明である。
『日枝神社史』『江戸名所図会』『申良家文書』等の資料や棟札(昭和20年焼失)、細部絵様、同時期の公儀普請・浅草神社(慶安2年・1649建立)等との比較、技法の共通性から、万治2年山王社造営奉行板倉甚太郎重直・横山内記知清両人により日枝神社造営時に新しく造営されたものであると推定される。江戸時代の多くの災害のほか昭和20年5月25日の空襲により日枝神社社殿焼失の際、校倉とともに戦災を免れて残った唯一の社である。本社復興までの間、日枝神社の仮本殿として用いられた。現存の社の建立年代を示す直接資料を欠くものの、日枝神社末社として本社とともに公儀普請により建設された可能性が高く、17世紀中葉の江戸における幕府建設活動を示す数少ない遺構例のひとつであり、加えて関東地方には希少の縋形式の春日造本殿であることは特筆される。
《狛犬》千代田区指定有形民俗文化財 指定 平成12年4月
日枝神社の境内社、山王稲荷神社の本殿と、八坂神社・猿田彦神社両社を合祀した本殿の前に、一対の石製狛犬があります。幅55cmほど、高さは70cmほど、台座部分を含めても大人の背くらいの高さです。
像の台座には「奉献」「文政三 庚辰年六月吉日」「南伝馬町三町目」「家主中」などと陰刻の銘文があり、向かって右側の像には「植草重左衛門」ほか10名と「地形方抱 三右衛門」「石工 新川勘兵衛」などの名前が、また同様に向かって左側の像には「亀田左兵衛」ほか11名の名前が見られます。この他に左側の像の中段台石外側の側面には「明治三十四年九月 自神田神社境内移之 南伝馬町三ヶ町」などと年代の異なる銘文も刻まれています。
以上のことから、この狛犬はもともと文政3年(1820)に、当時神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものであることがわかります。しかしその後、明治18年(1885)2月13日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿その他が焼失した後、南伝馬町の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を勧請しました。その時点では、おそらくこの狛犬は未だ神田神社境内に現存していたのであり、16年後の明治34年(1901)に石製燈籠などその他の南伝馬町天王社に由来する旧来の石造物とともに日枝神社境内に移転、再設置されたものと思われます。
この狛犬は、千代田区内に現存する狛犬としては、すでに文化財指定した二例[平河天満宮狛犬=享和元年(1801)、再建嘉永5年(1852)][築土神社狛犬=安永9年(1780)]と同様、江戸時代の銘文をもつものであり、区内においては貴重な文化財です。そして、江戸時代から明治時代にかけての人々の信仰の一端、特に日枝神社及びその境内社である八坂神社と神社周辺の人々や南伝馬町の人々との関わりを、私たちに語りかけてくれているのです。」
興味深い文献発見→日本の考古学リソースのデジタル化:日枝神社(古墳参考地)/2005年8月4日記
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