湯島天満宮[湯島天神・湯島神社]
亀戸天神で咲き始めを満喫し…そして、こちら湯島天神で満開一歩手前を…
おっとうっかり“梅祭り”の日。
お天気もよく…かなりの人出ですな…外人さんも多い。
賑わいは好きなのだけど、あまり長居出来ないこんなタイミングだとちと厳しい…あぁ、出店も寄りたいのにな………
参拝の列も相当なものだったので、申し訳なく思いつつ、裏参りだけさせていただく。
梅と本殿と青空のコントラストが素敵。
帰りに降りた“女坂”の脇にもズラリと梅の木…
あぁ…梅酒、飲みたい…(2017.2撮影)
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昔、高校受験の合格祈願を兼ね、初詣に訪れて以来。その時は混雑していたし、境内をゆっくり見て回れる状況ではなかったし…ほぼ初見。
程よい広さで、落ち着きのあるいぃお社。
境内にある石造りの臥牛2頭…
特に具合の悪いところってのが思いつかなかったので、とりあえず頭を撫でてみたのだけど…「この人は“頭”悪いんだな」と思われただろぉと後から気付き、苦笑。
それにしても…牛の目って、優しい。
社殿の裏、駐車場に車が少なかったせいか、表参道側に比べ、やけに広々と明るい。気持ちが良くはあるのだけど、何故かちょっと寂しい。
夫婦坂を降りていくと、鳥居の脇に“車祓所”。バイクのご祈祷してもらおっかな。(2013.7撮影)
「正式名称:湯島天満宮(平成12年〜)※湯島神社(明治維新〜平成12年)
通称:湯島天神」 公式サイトより
湯島神社由緒「湯島神社は湯島天満宮、湯島天神として全国津々浦々まで知られている
雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)1月創建と伝えられ、天之雄命を奉斎したのがはじまりで 降って正平10年(1355)2月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請した
文明10年(1478)10月太田道灌これを再建し天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである
その後、林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など、学者文人の参拝もたえることなく続いた
徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよびこの地を久しく文教の中心として当天満宮を崇敬したのである
明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月後世に残る総檜木造りで造営された」境内由緒書きより
湯島天満宮「社殿は平成7年(1995)総檜木造りとして造営された。平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7か月を要した。
祭神は菅原道真である。伝承によれば正平10年(1355)湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれている。その後、太田道灌が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かつて、湯島天満宮は“湯島天神”として知られ鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。
・銅製表鳥居(都指定文化財):寛文7年(1667)9月創建され、同11月(1671)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。
・奇縁氷人石:嘉永3年(1850)10月江戸で初めて建てられたもので、右側面に“たづぬるかた”、左側面に“をしふるかた”とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。」境内 文京区教育委員会 解説板(平成9年3月)
撫で牛:菅原道真公と牛との関係が深いため(「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在)、天満宮において神使とされ臥牛の像が決まって置かれている。
《天神石坂(天神男坂)》
「三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
江戸時代の書物“御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道に抜ける通り道になったという。
文京区教育委員会 平成3年3月」男坂下案内版より
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