秋葉神社・昆陽神社(幕張)
電車の中から見えた社殿らしきもの…すかさずマップでチェック(便利な世の中になったもんだ…)…やはり神社らしぃ。でも、なんだ?なんか、違和感…
線路側に神社があるのはめずらしぃことじゃない。でも、“見え過ぎ”な気が………
ということで、さっそく訪れてみた。
なるほど…木がないんだ………やけに広々とした境内…鳥居も狛犬さんたちも玉垣も、あたらしげ。社殿も、ふるそぉに見せていて実はあたらしげ。
と、境内に立ててある解説板読んで納得…道路建設のために、お引っ越しやら建て替えやらしたのね。
境内の下を道路が通ってる神社というのは、めずらしぃんじゃないだろか。
全体的に、まだ“整備中”という雰囲気…できましたら樹など植えていただけると素敵だと思うのですが、いかがでしょう?(2014.3撮影)
線路側に神社があるのはめずらしぃことじゃない。でも、“見え過ぎ”な気が………
ということで、さっそく訪れてみた。
なるほど…木がないんだ………やけに広々とした境内…鳥居も狛犬さんたちも玉垣も、あたらしげ。社殿も、ふるそぉに見せていて実はあたらしげ。
と、境内に立ててある解説板読んで納得…道路建設のために、お引っ越しやら建て替えやらしたのね。
境内の下を道路が通ってる神社というのは、めずらしぃんじゃないだろか。
全体的に、まだ“整備中”という雰囲気…できましたら樹など植えていただけると素敵だと思うのですが、いかがでしょう?(2014.3撮影)
《御祭神》
火之迦具土大神
《祭礼》
4月3日
【由緒】
「御祭神:火之迦具土大神
起記にも見られるように人間の生命、生活に欠く事のできない“火”の神様。御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く。火災をはじめ盗難除、百災消除、延命長寿、火防開運の神として祀られている。
由来:建立は不詳。通称権現様。古来よりの地名に権現山、権現町と称し、親しまれた名残がある。
享保年間に信仰の厚い氏子より土地を寄贈され、現在の地に移る。江戸時代、境内地に昆陽神社を据える。
千葉市美浜長作線の計画により一時、同町 子守神社に鎮座。道路開通後、昆陽神社と共に新社殿を造営。平成18年11月、遷座」境内解説板より
《昆陽神社(相殿)》
「御祭神:青木昆陽
江戸時代の蘭学者、甘蔗栽培の普及につとめた。
昆陽は八代将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉(1733〜34)の翌年、江戸小石川薬草園に甘蔗を栽培、数カ所で試作し、成功したのが馬加(幕張)村だった。その後、幕府により甘蔗栽培が広まる。以後、全国の何万人という人々を飢餓から救った。
由来:青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。甘蔗栽培を始めて約40年後のことで、馬加村ではこの大飢饉にもかかわらず、一人の餓死者も出さなかったといわれている。そして、昆陽は“芋神さま”として敬われ、弘化3年(1846)秋葉神社境内に祀られた。(道を隔てた千葉市用地に『昆陽先生甘蔗試作之地』碑が建つ。」
祭礼:10月12日…明和6年(1769)10月12日没に由来する」境内解説板より
花見川区幕張町4-803 » Google MAP
《周辺のオススメスポット》
【青木昆陽甘藷試作地】
「千葉市花見川区幕張町4−598−1千葉県指定史跡 指定日:昭和29年12月21日
この地は、享保20年(1735)八代将軍吉宗の命により、青木昆陽が薩摩芋を試験栽培し、成功した所です。
昆陽は江戸日本橋の魚商の子で本名を文蔵と称し、京都で儒学を伊藤東涯に学びました。江戸に帰ったのち町奉行大岡越前守に抜擢され、幕府書物方に登用され古文書調査・蘭学研究に励む一方「藩薯考」を著し甘藷栽培を説き、救荒食として飢饉に備えるよう吉宗に上書し認められました。甘藷は小石川養生園(現植物園)、下総馬加村(現在地)、上総豊海(九十九里町)で試作されましたが、現在地のみが成功しました。
甘藷栽培を紹介した人は昆陽以前にもいましたが、関東地方に広めたのは昆陽が最初であり、幕府の事業として実施したため全国に影響を与えました。その後幕張における甘藷栽培は次第に増え、天明の大飢饉にも甘藷のおかげで餓死者は皆無であったと伝えています。天保年間(1830〜40)には、検見川で甘藷から飴も製造されるようになりました。
平成9年3月 千葉市教育委員会」案内板より
《周辺の宿》
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