Yoyogi Hachimangu
ach、Toisc go bhfuil na crainn arda、Níl sé cosúil le "dlúth"、Is pábháil cloiche iad na cosa freisin、Is féidir liom siúl go compordach。
Má chasann tú ar dronuillinn agus téigh tríd an ngeata torii、Má fhéachann tú ar do lámh chlé, is féidir leat a fheiceáil díreach go dtí an scrín.、何やら小屋が…
おぉ〜、これが“代々木八幡遺跡”かっ!
この小屋が、4500年ほど前の住居の復元。入れないのが残念………その周辺は、ちょっと遊歩道っぽく整備されてる。広いぞ、境内っ
何はともあれまずお参りを…おっ、結婚式の真っ最中っ!
静かにお賽銭を入れ、鈴もほぉんのちょっとさわりと鳴らすか鳴らさないかくらいにして、そぉっとお参り…花嫁さんの白無垢姿、素敵ですっ
教会、神社、お寺の結婚式にも参列したことあるけど、神社の結婚式が一番好きかも…神社が一番好きってだけかもしれないけど………
ちなみに、お寺の結婚式ではご焼香があって、どうしてもご焼香といえばお葬式ってイメージを持っちゃってるものだから、不思議というか興味深いというか…いぃ経験だったわ…
社殿の右手奥に、“出世稲荷社”。朱色の鳥居を潜り、紅白の幟がはためく狭い参道を抜けた先、ちょっと小高くなったところに、朱色の覆屋があってその中にかわいらしぃ祠。そのまわりには小さな陶器の狐さんがわらっと居て、覆屋の周辺には石造りの神狐さんたちがぽつんぽつんと佇んでる。
なんだかちょっと不思議な雰囲気。居心地よすぎる…
拝殿わきにもどって、さらに横に進むと、神楽殿と神輿倉、それと…ん?なんだ?ガラス越しに何かが見える…倉庫?
と近づいてみると、電気ついた!…人感センサー付らしぃ…うわっ誰?!
どうやら、土器などの出土物を展示した、いわゆる資料館らしく、原始人さん(もちろん人形)もいます………
みどころ満載の素敵な神社。木陰のベンチで一休み…ほんと癒される。(2017.9.10撮影)
余談…
ここから首都高沿いを千代田線・代々木公園駅へむかって歩いてたら、カンカン激しく鳴り響かせながら何台もの消防車が背後へ走り去っていく…大きな火事?
これが、小田原線参宮橋駅付近での火災とその飛び火で電車も燃えた事件だった…
そのちょっと前に、南新宿駅から小田急に乗ってここまできて(散歩じゃないじゃないか…ともいう…時短よ時短…)…いたってのどかな風景を観てたのにな………と、
千代田線の中で、小田急の電車の屋根が燃え上がってる映像観て、なんとも複雑な気分に…この火事で、けが人が出なかったのは、ほんと何よりでした…
火事、怖いよ………
「当社は鎌倉時代の初め、建暦2年(1212)9月23日に、鎌倉幕府二代将軍 源頼家公にかかわる遺臣 荒井外記智明によって創建された。
智明は、頼家公が伊豆の修善寺で非業の最期を遂げられてからこの代々木の地に隠棲され、名も宗祐と改めて、日夜亡き主君らの冥福を祈っていたが、ある夜夢の中に故郷鎌倉の八幡宮から宝珠のごとき鏡を感得された。
これによって小祠を営み、八幡宮を勧請されたのがはじまりである。Ná mar "maighean scríbhneoireacht venerable
配座:稲荷社(豊受大神)、榛名社(日本武尊)、天神社(菅原道真公)
祭礼;五社宮祭 5月23日
「稲荷社と天神社については、江戸時代、大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、紀州家側室延寿院殿が守護神として祀っていたものが奉祀されたと伝えられている。Tar éis sin、明治33年、神社合併政策により、山谷301番地(現在の参宮橋駅の西)にあった掘出し稲荷と、新町三番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社がそれぞれ合祀された。
榛名社については、この地域で雨乞い豊作の祈願のために上州の榛名山まで参詣するという習慣があったことから、おそらく各村や家に祀られていた榛名社が、やがて氏神様である八幡宮の境内に移されたものと思われる。
chomh maith leis sin、本殿の八幡宮の相殿として、やはり明治33年、山谷365番地(現在の代々木公園駐車場あたり)にあった天祖社と、同じく山谷139番地(現在の南新宿駅の北)にあった白山社が合祀された。このため稲荷・天神・榛名社と両社を合せて祭礼を五社宮祭と称することになった。Ná mar "pláta treoir maighne
末社:出世稲荷社
祭礼:旧暦初午の日
「第二次世界大戦の昭和20年(1945)5月25日夜、このあたりは米軍の空襲により大きな被害を受けた。幸い神社は焼け残ったが、周辺は一面焼野原となり、その焼跡には家々で祀っていた稲荷社の祠や神使の狐などが無惨な姿をさらしていた。それらを放置しておくのはもったいないと、有志の人々らが拾い集め、合祀したのがこの稲荷社の最初で戦災の記憶と平和の大切さを偲ぶよすがともなっている。
Ba chóir a thabhairt faoi deara、祭礼日の旧暦初午の日には、さまざまな祈願をこめた紅白の幟の奉納が行われる。Ná mar "pláta treoir maighne
《代々木八幡宮神輿の由来》
「此の宮神輿は、大正12年(1923)8月、渋谷区新町町会(現代々木3,4丁目)の有志により、千葉県行徳の神輿師の許で造られ、祭礼のたびごとに賑々しく町内を巡行していたが、人口の減少にともない、永久保存を願って昭和37年(1962)9月、代々木八幡宮の宮神輿として奉納された。
関東大震災、東京大空襲の二度の大災害を無事くぐり抜けてきたが、傷みがひどくなったため、平成3年(1991)12月、平成御大典並びに御鎮座780年祭を記念して、氏子崇敬者770名の奉賛(2千万円)により、板橋の東京神輿センターで約70年ぶりに全面的な解体修理が行われ、面目を一新して今日にいたっている。
平成7年9月吉日 代々木八幡宮 総代会」境内案内板より
《八幡宮紀念の碑》
「明治34年、拝殿の改築が成った際、建立された。顕額は府知事・千家尊福、撰文は神田明神祠官・平田盛胤、執筆は子爵・福羽美静(ただし、福羽翁は高齢で病気がちであったため、門弟の野村伝四郎が代筆、裏面は義弟の福羽良曠)による。
『これの虚の底つ岩根に宮柱太しき建て 天津御空に千木高知り鎮り座します村社若宮八幡宮はしも順徳天皇の御宇建暦2年9月23日といふに この地に往せし荒井宗友の霊夢により勧請し奉りし大神なり そもこの宗友は頼家将軍に仕へし者の家人なりしかばそのかみ鎌倉に在りて鶴岡八幡宮は産土の神におはしまししよりここに退隠したる後も朝夕の拝禮怠をかりき 然るに建暦2年8月15日の夜 大神の仰さとしによりて 寶珠の如き鏡を感得しければ 宗友の喜び限りなく 此の地の荒棘を抜きて小祠を営み 同年9月23日始めて御祭を行ひにきこれぞこの御社の起源にして毎年大祭を9月23日に行ふもこの故なりけり 後 徳川幕府の頃となりては神仏混清の風なりしかば別当を寶珠山福泉寺智明院と称し 社地6千坪ばかりなりしか 明治維新の後は五段五畝二十四歩と改定さられぬ』」案内板より
《代々木八幡神社の森林》
「代々木八幡神社にはシイやカシなど常緑樹の林が見られます。この林は小高い丘の上にあって、まわりがまだ田畑と雑木林に被われていた時代から、人々の生活を見守り続けてきました。
もともとこの林はアカガシとスダジイの混じった照葉樹林で、太古の昔には関東平野の沿岸部の台地を広く被っていたものと考えられていますが、今では林床が刈り払われたり庭木なども植えられ、人手の入った林となっています。
chomh maith leis sin、社殿の裏側の方にはイヌシデやコナラ、ミズキなどの落葉樹が林をつくり、かつての雑木林の面影をとどめています。
これらの林の中には約130種もの植物が生育しており、住宅やビルの多い都心にあって、古くから多くの人々の手によってはぐくまれ、守られてきた貴重な自然です。Ná mar "an pláta treoir
《臼田亜浪の句碑》
「『そのむかし 代々木の月の ほととぎす 亜浪』
臼田亜浪(1879〜1951)俳人。長野県出身、法政大学卒。
大須賀乙字と俳誌『石楠(シャクナゲ)』を創刊して、高浜虚子らの俳誌『ホトトギス』に対抗した。この碑は、その創刊二十周年を記念して昭和9年に建てられたものである。
明治・大正の頃までは、chomh maith leis sin、このあたりは東京近郊ののどかな田園地帯であった。Ná mar "an pláta treoir
《表忠碑》
「明治37年日露戦争が勃発すると、当時代々幡村と呼ばれたこの地区からも多くの人々が出征した。こうした出征兵士の家族・遺族の援護を目的に設立された奨兵会によって、明治49年9月、小笠原長生子爵の筆による表忠碑が幡代小学校に建立された。碑の裏側には日露戦争の戦没者9名、出征者56名の名前が刻まれている。
第2次大戦後、表忠碑は軍国主義の象徴の一つとして多くが取り壊されたが、代々幡村の表忠碑は遺族や地域の方々の尽力によって、代々木八幡宮の境内に移転された。現在では、毎年3月23日 この碑に名前を刻まれている方々をはじめ、この郷土を守るために尊い命を捧げられた先人に対しての感謝と、世界の平和を祈る表忠碑慰霊祭が齋行されている。Ná mar "an pláta treoir
《庚申塔》代々木5丁目2番1号
「庚申の信仰は中国の道教思想に基づくもので、江戸時代盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられました。
庚申信仰は、60日ごとにめぐり来る庚申の夜、眠り込んだ人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て天帝にその人の罪過を報告し、罰が下されるというもので、寝てはいけないと信じられていました。
庚申堂や当番の人の家に集まった村人たちは、一晩中勤行をして夜明けを待ちました。その仲間を庚申講と呼んだのです。この人びとによって庚申塔は建立されました。庚申塔の多くは、青面金剛像が刻まれ、その下に三猿が彫られています。
ここにある庚申塔の年記をみると、宝永6年(1790)、宝暦5年(1755)、寛政6年(1794)などと刻まれています。
渋谷区教育委員会」案内板より
《代々木八幡遺跡》
「代々木八幡遺跡は、昭和25年(1950)の夏、國學院大學考古学資料質と地元の上原中学校の生徒たちによって発掘調査が行われました。これが、渋谷での本格的な発掘調査のはじまりです。さらに同年秋には旧渋谷区史編纂委員会が発掘調査を行いました。
計2回の調査では、早期から後期にかけての遺物が出土し、なかでも中期の遺物、加曽利E式と呼ばれている土器(約4,500年前頃)がたくさん出土しました。chomh maith leis sin、縄文人が生活した家の跡(住居跡)も確認され、翌年の昭和26年には、発掘で確認された跡を手がかりに、縄文人の住居が樋口清之氏(國學院大學名誉教授)により想定復元されました。
社務所増築に伴う発掘調査…
平成22年(2010)4月、社務所増築工事に先立ち、発掘調査が行われました。調査の結果、土坑8基とピット9本が確認されたほか、縄文土器も前記から中期のものが多数出土しました。
縄文人の道具…
縄文人はさまざまな道具を使って生活していました。
大きく二つに分けると、一つはドングリなどの食べ物を貯えるときに使ったり、あるいは煮炊きや盛り付けをするために使用した『土器』です。
もう一つは、狩りで獲物をしとめるため(石鏃)や木を切り倒したりするため(打製石斧・磨製石斧)、ドングリなどをすりつぶすため(石皿・磨皿)などに使用した『石器』です。
このほかにも縄文人の祭りなどで使用されたと考えられている土偶や石剣、石棒も、縄文人たちにとって重要な道具でした。」展示物案内板より
《代々木八幡遺跡》
代々木5-1-1 代々木八幡宮 区指定史跡 昭和52年5月26日指定
「代々木八幡宮は標高約32メートルの台地上にあって、その境内から石器時代の遺物が発見されました。
昭和25年(1950)、渋谷区でここを発掘したところ多数の遺物とともに、ロームを浅く掘りくぼめた住居と、その中に掘られた柱穴を発見しました。
ここから出土した加曽利E式土器によって、この住居には約4500年まえに人が住んでいたと推定されます。
渋谷区では、この住居跡にたてられてあった古代住居を復原して、その保存につとめております。
渋谷区教育委員会」鳥居脇案内板より
Fág freagra