[Ed] prògram sònraichte dearg sùilean agus immobile ìomhaigh (Tiantai Dheas Valley Teampaill)
高田崇史氏の『神の時空 ―五色不動の猛火―』を読んで俄然興味が…
“神社”を巡っている中で、気になる“お寺”へも立ち寄ってはいるのだけど、あくまで『番外編』と位置づけているのは、興味が薄いとかってわけではなく…
敷居が高い というか…門限があって入りづらかったり…あぁあと、お墓が隣接してることも大きいかも…
いや、怖いってことじゃなく、“お邪魔”してる感でかく、いたたまれなくなる…って感じ?
なにはともあれ…“目赤不動”。
そもそも“五色”=赤・黒・青・黄・白 って?
光3原色ならRGB、印刷4原色ならCMYK、色覚5原色なら白・青・黄・緑・赤、オリンピック五色なら赤・黄・緑・青・黒…
五色不動尊の五色は、その“視覚”的なものとは違い、五行思想からきていると言われていて、五行の”五”は、木・火・土・金・水で、森羅万象すべての要素なんだそうな。
それぞれに、方角や季節、感情・臓器・星・形・神、そして色があてられていて、「木・火・土・金・水」を色にすると「青・赤・黄・白・黒」。
さらにこの五行は、それぞれ作用していて、
“木”は燃えて“火”を生み、“土(灰)”になって、“金(好物・金属)”を作り、冷えると“水”がつき、それで“木”が育つ…これを「相生」といい、
cuideachd、
“木”は“土”から養分を吸い取り、“土”は“水”をせきとめて濁らせ、“水”は“火”を消し、“火”は“金”を溶かし、“金(好物・金属)”は木を傷つける…これを「相剋」という…とのこと。
ほほぉ〜としか言えない…
というわけで、こちらの目“赤”不動尊は、
火であり、南・夏・楽・心臓・火星・三角・朱雀…なわけか…
でもこの江戸五色不動尊については、いろんな説があるようで…
aig an àm、あちこちで町興し的に行われてる“七福神めぐり”的な感じか?…とか言ったらバチ当たる?
ach、結構そういうの好きだったりするし、
“江戸五色不動尊”まとめのおかげで、今回、こちらへもお参りできたわけだから…
目赤不動尊のある南谷寺は、こじんまりとしていて、静かで明るい居心地のいぃお寺だったな。(2018.3撮影)
" 'S e seo Fudoson、Tha a 'chiad chaidh a ràdh dhearg-shùil Fudoson。Tha e Gènna bliadhna (1615-24) millean lines sagart、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。Than "an iùl truinnsear
「当山に安置し奉る江戸五色不動の一つ目赤不動尊の由来を申し上げますと。元和年間(1615年頃)比叡山南谷に万行律師(南谷寺初代住職)という持戎智徳の名僧がおり常に不動尊を尊信し昼夜不退に不動真言を称えており、或る夜聖童夢枕に来たって告げたまう、万行多年不動尊を尊信する事深切なり、伊賀の国の赤目山来たれ不動明王の霊験あらんと告げ終り金光を放って飛び去る夢を見て夢さめたり。信心を肝に銘じ、お告げに従い速やかに比叡山を発ち、伊賀の国赤目山に登り絶頂の磐石に端座する事三日三夜、口に不動真言を称え手に秘印結び、心寂然として明王の来迎を待ち奉る。不思議なるか虚空に御声もろとも投げ入れ給う物あり。手を開き見れば是すなわち黄金一寸二分の不動明王の尊像にて、有難くも尊くて欽喜の泪にむせび礼拝恭敬し法楽して後赤目山をくだり比叡山南谷の庵室に安置す。暫くして後、衆生済度の志願を起こし、感得の尊像を護持して関東に向かい下駒込(今の動坂)なる有縁の地に堂を建て尊像を安置し万民化益を祈念し参詣の諸人祈願を訴え、應験を祈るに奇瑞蒙る事の少なからず。自ずから不動坂と称えて群参す、茲に寛永五年恐れ多くも、将軍家光公鷹狩りの途中、お徳をお尋ねになり由来を言上したところ府内五色不動の因縁を以て赤目を目赤と称える様にとの上意があり後に浅嘉町藤堂家屋敷跡を拝領し、同年寺院建立に及ぶ故有って智證大師の御作不動明王の霊像を受得せられ御前立に安置し黄金の本尊は後の厨子に秘伝安置奉り天台宗羽黒の支流に属し万行住職ありて大聖山東朝院と名づける。両尊像を守り奉りしに寛永18年3月26日権大僧都当院に寂す。以後年を越え月日を重ねて利益日々著しく参拝の諸人絶える事なし。
大聖山東朝院南谷寺」
《江戸五色不動》
赤:天台宗 南谷寺 東京メトロ南北線本駒込駅下車二番出口徒歩2分
黒:天台宗 瀧泉寺(目黒区下目黒3丁目20-26)東急目黒線不動前駅下車
青:Tendai Colaiste Foghlaim (Setagaya Ward Prionnsa Talla 4-15-1) Tokyu Den-en Toshi Loidhne Sangenjaya Eki dheth
Rabhadh:Tendai Eikyuji (Taito Minowa 2-14-5) Tokyo Metro Hibiya Loidhne Minowa Sta.
Tiantai an Teampaill, a 'chuid as motha buaidh (Edo-ku Hirai 1-25-32) JR Sobu Loidhne agus faigh dheth aig an amar-oilthigh Hirai Eki dheth Komatsugawa
White:Shingon òr Notera (Takada Toshima-ku, 2-12-39) Toden Arakawa loidhne Gakushuin fo Stèisean agus faigh dheth
"Old sràid iùl:Old Komagome Katamachi "
"Reimhid、Bha e a-mach às a 'bhaile Komagome。an dèidh sin、Dh'fhàs e an talamh-àitich de Rinsho Institiùd (teaghlach tighe Lady Kasuga) sgìre。
1737 bliadhna (1737) gu Fosgail an Machiya、Thar na Iwatsuki Road (Shogun ghrèin Onari rathad)、Chaidh ainmeachadh mar Komagome Katamachi mar robh an taobh an iar aon taobh baile Kichijoji。
Le 24 bliadhna、Chaidh còmhla mach às an taobh a-staigh de Shimebara tùsail fo Komagome bhaile。
Nanya teampull shùilean dearg immobile、Bha a 'chiad gluasad cnoc、Kanei ùine (1624-44), an treas Shogun Iemitsu Tokugawa e leig às na meadhan seabhagaireachd、Chaidh ainmeachadh shùilean dearg immovable a thaobh Meguro Mejiro、Chaidh a gluasad gu teampall a Tha thu an seo。Airson YoAkiratera、Tha uaigh an sluagh Tosui Nakarai an yearning de Ichiyo Higuchi。」
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