平河天満宮
千鳥ヶ淵の“かいぼり”が行われているという噂を耳にしたので、寄り道計画…
天気もいいし、ついでに赤坂の職場まで歩いてっちゃおう!…というわけで、平河天満宮へも立ち寄ってみた。
天満宮ということで…石牛さんがいっぱい!ポーズも表情も製作年代も様々。
境内はさほど広くはないのだけど、牛さん以外にも、城西大学奉納の大きな布袋様の像や、迫力ある姿の狛犬、大鳥神社・塩神社・浅間神社の三殿宮、境内社のお稲荷さんに、その参道には百度石・筆塚・力石が、さらに常夜灯や縁結びの梅…と、盛りだくさん。
銅鳥居は、解説板にもあるように、市谷亀岡八幡宮のものと似てる。
そういえば、ずっと鳥の声が…
聞こえていたけど、気にならなかったのは、近所でよく耳にする“ムクドリの大群の集会(?)の喧騒”に慣れているから…か?
で、その正体は…雀ちゃん!!!
沢山の雀たちが、足場のように組んだパイプにずらりと並んでぴゃぁぴゃぁないてる…
最近、めったに雀さんみかけなくなっていたよぉな…丸々としてて、かわいぃぞっ(2017.1撮影)
「江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
慶長12年(1607)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。」境内由緒書きより
《石牛(平河稲荷神社鳥居横)》千代田区指定有形民俗文化財
「この石牛は、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されたもので、奉納された嘉永五年(1852)は、祭神である菅原道真公の九百五十年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも2月25日から60日間にわたって催されています。
この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬・筆塚・百度石・常夜燈)を奉納しています。
平河天満宮には、氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常磐津節の一流派である岸沢派の麹町界隈の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の広がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。
平成23年3月 千代田区教育委員会」境内案内板より
《平河天満宮銅鳥居》千代田区指定有形民俗文化財(建造物)
「この銅鳥居は、高さ5メートルにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。
千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。
同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。“西村和泉”というのは、“文政武鑑”に“御鋳物師 西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ”とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは“西村和泉藤原政時”を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した八代目であると思われます。
なお新宿区市谷八幡町には、“平河天満宮銅鳥居”によく似た“市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居”(新宿区指定文化財)があります。これは“西村和泉”家五代目当主・西村和泉藤原m政平らによって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体ずつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。
平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。
平成8年3月 千代田区教育委員会」境内案内板より
《狛犬》千代田区指定有形民俗文化財
「本殿向かって右側の石像の名分によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし、“新撰東京名所図会”(第18編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
“新撰東京名所図会”にある紫宸殿の障屏画とは、一般に“紫宸殿賢聖障子”といわれるものであると思われます。“賢聖”とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの“賢聖”の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の“獅子”と“狛犬”です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、経十センチ、深さ五センチほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。
平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば“獅子”(右側)と“狛犬”(左側)との対になっているといえます。
平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮す人々の平河天満宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。
平成8年3月 千代田区教育委員会」境内案内板より
《力石(天龍石)》千代田区指定有形民俗文化財
「“力石”とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多いとされています。
また、“力石”における伝承のひとつとして、“道切”説もありますが、“巨人伝説の大草鞋”などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようです(疫病は道を伝わって来ると信じられていました)。
平河天満宮のちから石の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
なお、本力石の表面には、中央に“天龍石”、右端に“十店助次郎持之”、左端に“同新助”と刻まれています。
平成6年12月 千代田区教育委員会」
摂末社:平河稲荷神社(商売の神)、三殿宮(大鳥神社、塩神社、浅間神社)
千鳥ヶ淵での“かいぼり”は、初めての試みだそうで…もちろん、降りられるわけではないけど、“底”を眺めてみたくて、ふらりと立ち寄る…
戦時中、皇居を守るために必要だったんだろ的な想像どまりで、それがどういうものでどう置いてどう使ったかは、解説板とかもみあたらないし、さっぱりわからない。
そもそも、地図上に“砲台跡”として書かれてなければ、普通にベンチとしか思えないような形だし…
作者:セバスティアン 作品名:移住 製作年:1997年 材質:スチールプレート 寸法:420x420x240cm 重量:1,000kg」モニュメント前プレートより
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されました。
現在、右手の石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
千代田区教育委員会」案内板より
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