検見川神社
線路脇の小高い場所に建っていて、電車から気になる森… 思ったよりずっと大きな神社だった。(2012.9撮影)
「検見川神社周辺には「大賀蓮」で有名な検見川泥炭遺跡があり、三隻の丸木舟が出土し、縄文時代すでに人々が住んでいた事がわかります。古くから住んでいた人々は自然の中に神々と共に生活していました。
検見川の地で祭祀が始まったのはいつ頃か定かではありませんが、人々が定住し始めた縄文時代には土俗的な祭祀が営まれていたと思われます。
当社の北隣の地は古くから「嵯峨」と称していて、嵯峨天皇ゆかりの地と伝えられ、朝廷との関係を物語っています。
検見川神社の御創始は、平安時代清和天皇の御宇貞観十一年(八六九)全国に流行した疫病を鎮めるため、朝廷では京都の神泉宛に矛六十六本(全国の国の数)を建て、御霊会(今日の祇園祭)を斎行しました。此の時祇園社(現在の八坂神社)の御祭神素盞嗚尊の御分霊を矛に鎮めて国々に頒ち、疫病消除を祈りました。その時下総国で祀られた所が嵯峨の地でした。
その後、兵部少輔平春靖が葛飾原に土着の際付近の開墾を始めたところ、災害が重なり疫病が流行しました。その時嵯峨の地から素盞嗚尊の御鏡が出土し、検見川大明神に無断で土地を犯したことから起きた災いであると知り、朱雀天皇の御宇承平四年(九三四)に嵯峨の地に社殿を建立して祭祀を営み謝罪したところ、無事開墾することができたと伝えられています。現在の花輪台の地に社殿が遷されたのは後陽成天皇の御宇文禄年間(一五九二~一五九六)のことです。
稲荷神社は、近衛天皇の御宇久寿二年(一一五五)勅命により下野国奈須野ヶ原の妖狐(九尾の狐)を退治した金田小太頼次の子孫金田周防守正明が、検見川の地を領した後水尾天皇の御宇元和二年(一六一六)検見川大明神の神域に祀られました。
熊野神社は後小松天皇の御宇応永十六年(一四〇九)以来嵯峨の地に祀られていました。日頃崇敬していた正明は、寛永年間(一六二四~一六四四)に現在地に遷し、祭祀を営みました。
以後、「神祇三社」と称され、今日に至っています。」境内由緒書きより
《境内末社》
下総天満宮(菅原道真公)、嵯峨大地主神社(土公神)、天地神集神社(八百萬神)、難波塞神社(疫病除の神)、江戸湾金刀比羅宮(金刀比羅大神)、三峯神社(三峯大神)、古峯神社(日本武尊)、市神之社(夷神)、浅間神社(浅間大神)
《境外末社》
鷲神社(鷲大明神)、三峯神社:旧 犬飼神社(三峯大神)
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