藏前神社
で、境内のあちこちを散策するのも忘れ、元犬像観察………し、しまった…
拝殿の素木で品のいい感じと、広々と明るい雰囲気の境内が印象的。(2014.5撮影)
「当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(1693)8月5日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。
“石清水八幡宮。御朱印領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は、元禄六酉年五月二十七日、高野山輿山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年八月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝領つかまつり候。其の後、享保十七子年三月二十八日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年三月二十日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宣しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申す渡され候。”
すなわち、創建三十九年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その12年後の延享元年4月15日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の『初絵図』にも見られます。
正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
また、天保12年(1841)12月には、日本橋の『成田不動』(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
江戸時代も幕末の安政2年(1855)10月2日、江戸を襲った所謂『安政の大地震』では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ一寸五尺の『宝塔』一基(大施餓鬼塔)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめました。
明治に入ると、その3月に『神仏分離令』が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となりました。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移されました。
明治6年8月、郷社に列格し、同11年11月、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から、『石清水神社』と改称、さらに同19年4月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年9月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竃神社』(陸前国宮城郡鎮座神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その三大拠点の一つでした。
とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明2年(1782)二月場所7日目、安永7年(1778)以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に『渡し込み』で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたものです。そして、当社で開催された宝暦11年(1761)十月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
かゝる忠実に基いて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
平成18年11月吉日」境内由緒書きより
《境内神社(末社)》
“福徳稲荷神社”
祭神:倉稲魂命
御神徳:商売繁昌、五穀豊穣、家内安全
例祭:2月初午の日
《古典落語ゆかりの神社》
「元犬
藏前の八幡さまの境内で満願叶って人間になった眞白い犬が奉公先で巻き起こす珍騒動は…
阿武松
江戸時代勧進大相撲発祥の地
藏前の八幡さまで名横綱に出世した相撲取りの人情噺」境内“元犬像”前の解説板より
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