太田姫稲荷神社[旧名:一口“いもあらい”稲荷]
改修が完了してお参りできるのが、今からとても楽しみ。(2013.7)
旧社地の御神木に括り付けられていた“風邪咳封治御守”をいただいてきたので、もぉ風邪知らずだわっ
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改築再開後、やっと参拝に行けた。
極力古材を活かしたとのことで、落ち着きある佇まい。
以前は地面に置かれていたという狛犬さんたちは大きい石に乗せられてた…でも、ちょっと危なっかしい感じ。
神輿庫は新調で、おさめてある御神輿を見る事が出来る。
この神社の人気者だった“太鼓乗りのおきつねさま(鍵を咥えた飛び狐さん)”は見当たらず…(2014.1撮影)
ところで…改築中、こちらの神様は何処に遷座されてたんでしょう?
改修工事終了。
「太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と 古い由緒をもつ神社であります
『駿河台文化史』(昭和10年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和6年はじめ伯耆の国(鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の危険を感じたため 篁は正装をして舟の舳に座り熱心に普門品(観音経)を唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて『荒波からは命を守っやるが疱瘡(天然痘=大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう』と告げ 波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた 後に山城国(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が重い疱瘡にかかり絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と幣を授かり帰ると 重篤の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(1457年)のことである
慶長8年(1603年)8月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長11年の江戸城大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いもあらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治5年(1872)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年4月18日と定められ 後に5月第二土曜日となる
大正12年(1923)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正14年(1925)仮社殿が落城
昭和3年(1928)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所 鳥居等新築される
昭和6年(1931)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地の大半を収容され 鉄道省より現在地を換地とされ 一切の建築物をそのまま移転し今日に至る」境内由緒書きより(2014年1月現在、今回の改築に関しては触れられていない)
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現在(2013年7月)改修工事中。完了予定は、2013年9月末とのこと。
「太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開創した時江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された
昭和6年(1931)総武線開通に伴い現在の駿河台下に移る
尚鐵道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり開通時天皇家との間に堀幅を減じない、中で商業を営まない、環境を守るとの約束がある(明治期鐵道史より)
この木は椋(むく)の木 落葉高木 花に緑 実は濃紫」旧社地(御神木)の由緒書きより
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