【番外編】奥之院(法華経寺)
さほど広くはない境内…入って右手に小さいお地蔵さんがずらりと並んでて、びっくり…
って、水子供養のお地蔵さんらしい…なんとも切ない光景。
仁王門の手前にも、境内にも、大きな日蓮さんの像が立っていたけど、こちらにも…それぞれ年齢が違うようで、こちらの日蓮さんが一番年長さんかも…
右手奥の弁天様の背後…水は出てないけど、“滝”らしぃ。石の積み方がちょっと舞台のセットみたいで、なんかほほえましぃ…水が出てたらもっと違う印象だったんだろな…
ぐるりと巡って、もちろんお参りもして…さて、そろそろ戻ろうか…と、
いきなり何やら“どどどぉ〜”という雄叫び(?)が…ひとけもなく、すこぶる静かだっただけに、かなりびびって振り返る と…
おぉ〜滝だぁぁぁ〜
かなりの勢いで噴射状態…慌てて滝の方へ…って、思った以上に水しぶきっ!温かめな日で良かった…でも、なんでいきなり“出た”んだ?時間?動体感知?
法華経寺に戻る前に…一つ是非寄りたいお寺が…(2017.3撮影)
《奥之院(若宮館跡)》
「鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い、熱心な信者となったのです。
そうしたところから、文応元年(1260)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼討ちにあったとき、この常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法を願いました。さらに日蓮は、文永元年(1264)安房の小松原で東条景信に襲われた後も、若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回に及んだといわれます。この地が日蓮の『初転法輪の旧跡』とされるのは、この理由からです。このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にまつわる数多くの伝承も残されています。
弘安五年(1282)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称しました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は奥之院と称されるようになりました。いまでも土が高く盛られ、大樹の繁っている部分は、往時の館を取り囲む土塁の一部で、この館の跡を『若宮館跡』と呼んでいます。
平成13年3月 市川市教育委員会」解説板より
《弁財天》
「七福神の中で唯一の女神で、もとはサラスバティというインド古代神話に現れる大河の神で梵天の妃といわれている。
サラスバティは、『水を有するもの』を意味する女性名詞で、その流れる水の音にちなみ、音楽の神、弁舌(知恵)の神となり日本に伝わった当初は弁財天と呼ばれた。仏教に弁財天を登場させたのは、『金光明最勝王経』で、弁財天はこの経を説く人や聞く人に知恵や長寿、財産を授けるとしている。しかし、民衆の間では技芸の神として信仰されることが多く日本古来の神であるイチキシマヒメノミコトと習合して、白肉色で宝冠をかぶり琵琶を弾く美女の姿が一般的になった。
中世末期以降は財産の神としての信仰も生まれ、弁才天を弁財天とも書くようになり七福神のひとつとして取り入れられるようになった。知恵財宝・愛嬌縁結びの徳があるといわれている。弁財天は古来より宇賀徳正神と表裏の関係で祭祀されることを思うと、法華経寺の宇賀徳正神と当寺の弁財天も表裏の関係と思われる。願満弁財天として多くの参拝者を集めている。」奥之院内 解説板より
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