鷲神社
舗装された参道は、左右に大きな駐車場があるので、広々として明るい。社殿前は階段ではなくスロープ。しかも、滑らない仕様。
そして…
賽銭箱の上に、でっかいおかめさんっ!おぉ〜これが噂の“なでおかめ”
『おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う』
とのこと。
(2016.9撮影)
「鷲神社は江戸時代以前より比の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、福運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の『熊手』をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが『酉の祭』即ち『酉の市』の起源・発祥です。
その后、日本武尊が併せまつられ、浅草『酉の祭』『酉の市』は次第に賑わいを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊郭の隆盛と共に賑わい『吉原のおとりさま』とも云われました。
江戸時代からまつられている『鷲大明神』天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から『鷲大明神・おとりさま』といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は、『東都歳時記』に“開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。
《酉の祭・酉の市》
歳末にあたり一年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草『酉の市』は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。
『酉の市』は江戸時代には『酉の祭』とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。
又、『市』は『斎く』で神様をお祭りするために『身を清めてつつしむ』ということです。
このように『祭』・『市』も本来は『清浄な神祭』を表しております。縁起熊手にも神社で使われる四手(神で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。
この事からも『酉の市』の『市』は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表しており、佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。
江戸時代の『酉の市』は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文9年に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。
明治元年『神佛分離令』が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。
その后、長國寺は明治43年、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正12年の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり,その御由緒により十一月の酉の日に「酉の市」が斉行され多人の参詣者が集い,鮮やかな感動をよび,人と祭りのふれあいを感じさせるのです。
浅草田甫 「酉の市 御本社」鷲神社」鳥居脇案内板より
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