[Edición extra] Matsubayashiyama Daigoji (Meguro yá Daikoku — ji)
大概のお寺では、閉門時間があるので、もう閉まっちゃったかな?と、思いつつ…こちらが閉門するのかどうかはよくわからなかったのだけど、開いていたので、ちょっとお邪魔することに。
(って、行人坂の角度恐るべし…皆、下を向いて歩くしかないくらいの斜面で、方向転換するのが大変。ちなみに20度くらい。都内23区内でもこのくらいの傾斜の坂は、結構あるらしぃ)
立派でちょっと新しそうな門。左手の小さな池の背後から奥へむけて、ずらりと並ぶ石仏は、想像以上で圧巻。背後は、ぐるりと樹々に囲まれている感じで、外の喧騒も遠く、なんか森の中に迷い込んだみたいな錯覚を覚える…
境内はそんなには広くないのだけど、きれいに整備され、本堂に沿って並ぶ石碑や仏像、鐘楼もあり、見どころは多い。(2018.4撮影)
「この寺は『松林山大円寺』といいます。嘉永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。
本寺には、“生身の釈迦如来”と言われている木造『清涼寺式釈迦如来立像』(国指定文化財)、木造『十一面観音立像』(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための『三面大黒天像』(山手七福神の一つ)などが安置されています。
明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた『釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像』等の『大円寺石仏群』(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には『木造阿弥陀三尊像』(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
境内には『行人坂敷石造道供養碑』(区指定文化財)、『目黒川架橋供養勢至菩薩石像』(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。
平成3年3月 目黒区教育委員会」境内案内板より
《大円寺石仏群》東京都指定有形文化財(歴史資料)
「明和9年(1772)、江戸市中を焼く大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。この火事は『行人坂の火事』と呼ばれ、明暦3年(1657)の振袖火事、文化3年(1806)の車町の火事と並び、江戸三大大火事の一つに数えられている。『新編式蔵風土記稿』には、大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。
大円寺境内の北東側斜面に、520躯の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩・普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と十六羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は、五百羅漢の中に宝歴13年(1763)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1781)以降の造立と思われる。嘉永元年(1848)に大円寺が再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。
像高は、釈迦三尊像が147〜155cm、十大弟子像が55〜126cm、十六羅漢が95cm、五百羅漢像が37cm前後、判読できる銘文によると、行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。'Nehe、広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたことも読み取れる。江戸災害史の貴重な資料である。
平成23年3月 建設 東京都教育委員会」境内案内板より
《釈迦如来立像》国・重要文化財(旧国宝)
「本尊は、京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本尊(国宝)は、東大寺の僧が寛和2年(986)に中國から請来したもので、請来当初から摂関藤原家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。
現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。両耳孔には水晶珠をはめ込み、顎際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って裁金線が入っているなど他の像に比べて全てか細かに模されています。
昭和32年(1957)に行われた解体修理の際、胎内から白胴製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久4年(1193)に制作されたとされます。
原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。
釈迦如来 ご真言
おん。さるはしちけい。むしゅたらに。そわか。"Ndezu̲ mbo jar placa guía"
《生身 釈迦如来 ご開帳》
「ご開帳日
・大晦日 12月31日 開帳時間(午後11時〜午前2時まで)
・正月 1月1日〜1月7日 開帳時間(午前8時〜午後5時)
・降誕会(花祭り)お釈迦様のご誕生の日 4月8日
開帳時間(午前8時〜午後5時)甘茶ご接待
・江戸裏鬼門守護 大黒天ご縁日 甲子祭(年6回)時、
開帳時間(午前8時〜午後5時)
・東京都文化財ウィークデイ期間 開帳時間(午前8時〜午後5時)」
《八百屋お七と吉三(西運)》
"Nxoge ar jeya Edo、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(1682)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が十八才でした。
Wat'i,、短い避難生活のこと、やがて離れ離れになってお七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴が森の処刑場で火刑に処せられました。
Después ar、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。Después ar、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀三尊仏を祀り、身を寄せながら隔衣日参一万日という念仏行を始めました。浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。
西運は集った浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。
地蔵菩薩 ご真言
おん。かかか。びさんまえい。そわか。"Ndezu̲ mbo jar placa guía"
《行人坂敷石造道供養碑》(区指定文化財)
「この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク. (阿弥陀)サ. (観音)サク.(勢至)が刻まれています。
下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。
施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。
平成3年3月 目黒区教育委員会」境内案内板より
《目黒川架橋供養勢至菩薩石像》(区指定文化財)
「下から台座(97cm)、蓮座(20cm)、頭上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像(52cm)の3段になっています。
台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。
銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝をうけ、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことがわかります。
目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。
平成3年3月 目黒区教育委員会」境内案内板より
「八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏」案内板より
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