王子神社
音無親水公園から脇参道の階段をのぼり、まず都指定天然記念物の大イチョウに出会う。
黄色い葉を茂らせ、美しくどっしりとした存在感。
境内に入ると、“おみくじの神歌”看板が…おみくじオシ?
…とこれは、あとでおみくじを引いて納得…くずし字で、何が書いてあるかわからない…看板までダッシュ!
ゆったりとした境内で、ゆったりとした時間が流れる…
いぃお社だ…しみじみ…
七五三で着飾った親子連れ…なんとも微笑ましい。
見ず知らずのお子たちの幸を願わずにいられない…いぃ天気でよかったね。
青い空…とてもとても高い。
あぁ…もうすぐ冬だ…(2017.11撮影)
「元享2年(1322)、豊島郡を支配していた豊島氏が、熊野の方向を望む石神井川沿いの高台に、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子宮として祀られるようになりました。これにより、村名が岸村から王子村に改められ、王子という地名の由来となりました。また、石神井川がこの地域では音無川と呼ばれているのも紀州の地名に擬したとの説があります。
王子神社は、豊島氏に続いて領主となった小田原北条氏からも寄進をうけ、江戸時代には、徳川家康が社領として200石を寄進しました。これは、王子村の村高の三分の二にあたります。別当寺は、王子神社に隣接していた禅夷山金輪寺で、将軍が日光社参や鷹狩の際に休息する御膳所となっていました。将軍家の祈願所として定められた王子神社は将軍家と関係が深く、三代将軍家光は社殿を新造し、林羅山に命じて『若一王子縁起』絵巻三巻を作らせて奉納しました。家光の乳母である春日局も祈願に訪れ、その後も、五代綱吉、十代家治、十一代家斉が社殿の造営修繕をし、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も十七社を数えました。
紀州徳川家の出であった八代吉宗は、紀州ゆかりの王子をたびたび訪れ、飛鳥山に桜を植樹して寄進しました。
この後、花見の名所となった飛鳥山や王子神社周辺は、江戸近郊の名所として多くの人が訪れるようになります。
特に、7月13日に行われた王子神社の祭礼は『槍祭』ともよばれ、小さな槍を買い求める人や田楽躍を見物する多くに人でにぎわったことが見物記などからうかがえます。
明治時代にはいると明治元年(1868)、准勅祭社となり、東京十社に選ばれ東京北方の守護とされました。
戦前の境内は『太田道灌雨宿りの椎』と呼ばれた神木をはじめ、多くの樹木が茂っていましたが、戦災で焼失したため、境内に現存する東京都指定天然記念物の大イチョウは、戦災を逃れた貴重な文化財です。戦後は、氏子一同により権現造の社殿が再建され、現在の景観に至っています。
平成25年6月 東京都北区教育委員会」境内案内板より
《関神社》末社
「蝉丸法師を祭神とし、理容業者により信仰されている全国でも珍しい『髪』の祖神です。」王子神社境内案内板より
「祭神:蝉丸公、逆髪姫、古屋美女
『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも逢坂の関』の和歌で有名な蝉丸公は、延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しみ姉君のために侍女の『古屋美女』に命じて『かもじ・かつら』を考案し髪を整える工夫をしたことから『音曲諸芸道の神』並に『髪の祖神』と博く崇敬を集め『関蝉丸神社』として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が『かもじ業者』を中心として江戸時代 ここ『王子神社』境内に奉斎したのが、当『関神社』の創始なり。昭和20年4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地『かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師』の各界に呼び掛け浄財を募り昭和34年5月24日これを再建せり。
王子神社 宮司
[毛塚の由来]
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌」と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年5月24日『関神社』境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助とする。
関神社奉賛会
東京人毛商工組合 東京床山協会 東京かつら協会 関西かつら協会」関神社境内案内板より
《王子神社のイチョウ》都指定天然記念物 昭和14年3月指定
「音無川(石神井川)左岸崖線の肩の部分に一際高くそびえ立つ大イチョウです。幹囲5.23m、樹幹の先端部は欠損していますが、高さは24.2mあり、全体的にはほぼ自然樹形を保っています。
王子神社の創初については、飛鳥山公園内にある『飛鳥山碑』(都指定有形文化財・古文書)に書かれています。それによれば、元享年間(1321〜24)に豊島氏が勧請したことが始まりとされていますので、その頃にこのイチョウが植えられたとすると、600年近い樹齢と考えられます。
戦災によって王子神社の社殿や太田道灌が雨宿りしたという伝説を持つシイの大木など多くのものが失われた中で、このイチョウは生き延び、今も高台から東京の街の移り変わりを静かに見つめています。」東京都教育庁発行 資料より
11:00~19:00 不定休
» オフィシャルサイト
お話し好きのお茶目なおとうさん。
50数年前の東京オリンピックで審判してたんだって。
園内には約650本の桜や約1万5000株のツツジ、約1300株のアジサイが植えられ、今も昔も花見の名所。
遊具や砂場のある児童公園、都電や機関車の車両、旧渋沢庭園、
さらに3つの博物館、渋沢史料館(隣接の晩香廬・青淵文庫は、渋沢栄一氏の書庫・接客の場として使われた大正建築で国指定重要文化財に指定されている)・北区飛鳥山博物館(郷土風土博物館)・紙の博物館(紙の歴史から種類、製造方法など)など、見どころ満載。
コメントを残す