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熊野三所大神社
Date of shooting: 2026.02.09, 2026.02.10
| 御祭神: |
夫須美大神 家津美御子大神 速玉大神 |
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- 祭礼:
- 2月14日直前の土日
- 御由緒:
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熊野三所大神社は、かつては浜の宮王子とも呼ばれ、御神像3体は国の重要文化財に指定されている由緒の古い神社です。隣接する補陀洛山寺と一体のものとして人々に信仰されてきましたが、19世紀後半、明治新政府の命令(神仏分離令)によってはっきりと区別され、のちに現在の熊野三所大神社と改称されました。
1648年の再建と伝えられているこの神社の本殿には、熊野三所権現(熊野夫須美大神、御子速玉大神、家都御子大神)を祀っています。また、二社の摂社もあり、これらはそれぞれ本殿の両側に建てられています。右側の社殿は熊野に上陸した初代神武天皇に抗戦し敗北した丹敷戸畔を祀っており、左側には食と稲作の神である御食津神(三狐神)を祀っています。境内の周りの木立は「渚の森」と呼ばれ、多くの熊野詣の紀行録の中で讃えられており、現在もこの森の一部が残されています。
那智勝浦町+《浜の宮王子社殿》
藤原宗忠の日記、『中右記』天仁二年(一一〇九)十月二十七日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀洛浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。『平家物語』には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀洛浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀洛渡海の様子が描かれています。また、浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風習がありました。連書とは、熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。応永三十四年(一四二七)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意が記しています。
三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社と称してます。なお、隣の補陀洛山寺は千手堂あるいは補陀洛寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。
《当社御案内 熊野三所大神社(国指定重要文化財)》
一、御祭神 家津美御子大神 夫須美大神 速玉大神
二、摂社(石宝殿)
丹敷戸畔命(地主ノ神) 三狐神(食物ノ神)
若宮跡(浜ノ宮王子社跡)渚の森にあり 社殿は宝永の津波で流失
三、由緒
古来「渚の宮」「浜の宮王子社」「熊野三所権現」と称せられ、補陀洛山寺との神仏習合の形が今に残り本殿のすぐ前で参拝ができる数少ない神社です。
○熊野年代記に
欽明天皇廿四年浜の宮に宮殿出現とあり、同三十年補陀洛観音出現とある(約一四〇〇年前)尚天武天皇五年八月大暴風雨「浜の宮」子社流るとある。
○平家物語、維盛入水の頃に
浜の宮と申す王子の御まへより一葉の舟に悼さして」とある。
○熊野詣日記(足利義満の側室)に
「申の半時に、はまの宮に御つき御奉幣、御神楽常のごとし」とある。
四、渚の森(社寺前の森を云う)
昔の面影はないが「紀路歌枕抄」にもあり古来和歌によく読まれた名勝の森。
続古今集 衣笠内大臣
「むらしぐれ いくしほ染めてわたつみの 渚の森の 色にいつらむ」以上
境内案内板より(境内由緒書きより)
- ヒトコト
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駅前から大通りを渡って、補陀洛山寺の隣の熊野三所大神社へ。ここは、浜ノ宮王子跡でもある。って、鳥居の後ろにオレンジのシートが広げられ、鳥居に何やらくくりつけている人々が…どうやら、週末にこの神社のお祭り(浜の宮の祭り)があるらしく、その準備のよう。
鳥居をくぐれないのは残念だけど、それは仕方ないね。
横から巨大な夫婦杉の脇を通り、境内へ。素木の落ち着きある社殿。左右に小さなお社(丹敷戸畔命の社、三狐神の社)。鳥居の後ろのシートを反対側から見たら、そこには的が…尾弓行事という矢を射る行事があるらしい。
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