下谷神社
社殿のほどよい色合いが落ち着きある雰囲気を醸し出してるのだけど、神門の上からミストが吹き出してるのは斬新で、ありがたい。
拝殿横に置かれたおみくじが素敵。繭玉や招き猫の形をしたものもかわいかったけど…素焼き白狐さんに一目惚れ。底の穴から赤い紐が垂れていて白紙でふさいである。ふると軽くコトコトって音がして、その紐をひくと中から丸めて半分に畳まれたおみくじが出てくる。おみくじを抜いた後の狐さんは、そのままかわいらしぃ置物に。あぁ…うっとり。
「初穂料は真ん中の賽銭箱に」…やっぱりおおらか。
境内社の隆栄稲荷神社もかわいらしぃお稲荷さん。境内のあちこちに神狐さんがちょこちょこ祀られてあって、油揚げもそこここにお供えされててなんとも微笑ましい。
そして…社殿前の神狐さんが、スマートで美しい。
「大年神は天照皇大神の御弟素盞雄尊の御子で五穀を主宰し厚く産業を守護し給い、倉稲魂命と共にひろく「お稲荷様」として祭られている神様であります。
日本武尊は第十二代景行天皇の皇子で智仁勇を兼備え諸国を平定して御恩威を四方に輝かされました。
当神社は、人皇第四十五代聖武天王の御代天平2年(730)に峡田の稲置らが、大年神日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ヶ岡の地にこの二神をお祀りしたのが創めであると伝えられて居ります。
第六十一代朱雀天皇の天慶3年田原藤太秀郷が相馬に向うとき当神社に参籠して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新に造営致しました。降って寛永4年寛永寺を建立するに当り、社地を上野山下に移されましたが狭いので延宝8年更に広徳寺門前町に替地して社殿を造営しました。当神社は昔から「正一位下谷稲荷社」と称し奉られていたので、この時からこの町を稲荷町というようになりました。
明治5年に神社名を「下谷神社」と改め、翌6年郷社に昇格致しました。
大正12年大震災のため、社殿悉く焼失しましたのでとりあえず仮社殿に遷座しましたが、昭和3年土地区画整理により改めて社地を現在の所に定め、同6年社殿造営の工事を起し同9年完成し本遷座し奉りました。
その後東京は御承知のように戦争の災禍に遭いましたが、当神社は御祭神の偉大な御神徳により、奇しくも御神体御宝物はもとより、社殿全建物に聊かの損害もなく、平成5年には社殿屋根の修復、平成10年には床の補修工事を終えその荘厳さを保ちつつ現在に至っております。尚、当神社は寛政10年(1798)に江戸で初めて寄席は行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑が建立されております。」拝殿に置かれた“下谷神社参拝の栞”より
「天平2年(730)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永4年(1627)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝8年(1680)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が立ち並んでいた。
本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開張・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
「下谷神社」と改称したのは明治5年(1872)である。関東大震災の後、昭和3年(1928)の区画整理により、東南に50メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成12年、台東区有形文化財)。平成16年3月」境内の台東区教育委員会による解説板より
「定
一 車馬ヲ乗入ルコト
一 樹木ヲ伐ルコト
一 建物ヲ汚損スルコト
一 火氣ヲ弄ブコト
一 悪戯ヲ爲スコト
右境内二於二禁止ス
昭和八年十二月に十六日
東京府
郷社 下谷神社」境内由緒書きより抜粋
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