装束稲荷神社
朱色の鳥居と柵(玉垣風)と幟と社殿…それに、黄色の提灯がちょこちょこ見えて、なんともかわいらしい佇まい。
社殿前の神狐さんたちは、ツルリンスラリとした姿…銀座の宝珠稲荷神社や下谷神社の境内社・隆栄稲荷神社などもこのタイプで、なんか惚れ惚れしてしまうのだ…
社殿の扉には、狐のお面。
これから年末にむけて、提灯が点灯されたりとか準備が進んで盛り上がっていくんだろな。
今はまだひっそりとしていて、その喧騒を想像して羨ましく思ったりもするけど、
初めてのお参りをゆっくりじっくりのんびりできたことには、しみじみ感謝。
あぁ…『大晦日の狐の行列』、参加したいわ………
(2017.11撮影)
「今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木がありそこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります
この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年12月の晦日の夜関東八ヶ国の稲荷のお使がこの社に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています 江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています
その後明治中期に榎の大木は枯れ土地発展に伴いその住置も現在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました
昭和20年4月13日の大空襲の際猛烈な勢で東南より延焼して来た火災をここで完全に喰い止めて西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります
この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿を造営せんものと地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社殿を見るに至りました
この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず信心篤き者は衣裳に不自由することなく又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊崇を高めています
昭和29年12月吉日 装束稲荷奉賛会」境内案内板より
《王子の狐火と装束榎》
「かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。
昭和4年(1929)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子『狐の行列』が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。
平成9年3月 東京都北区教育委員会」境内案内板より
コメントを残す