素盞雄神社
想像以上に広い境内。名越の祓の準備の真っ最中らしく、神職の方々があちらこちらであれこれ作業されてる…
拝殿前鳥居にはすでに大きな茅の輪が…
とはいえ、まだ6月半ば…参拝の人影はまばら。のんびりと散策させていただいた。
社殿…黒い屋根も紅い壁もちょっとスモーキー、キーカラーは金と白…品良くすてき。扉が開かれた神楽殿も清々しい雰囲気。
どちらも、古い建物ではなさそぉだけど、しっとりとした落ち着きある風情。
明るい境内…社殿の左奥には、末社が楚々と並んでる。
社殿の右側に、一際大きな銀杏の木。樹々が生い茂る「飛鳥の杜」(境内)の中でも、一際目立つ存在。子供の成長を願った絵馬が沢山かけられ、仰ぎ見ると青々とした葉が繁ってる。樹齢は、500年とも600年とも言われてるそぉな。
その樹のすぐ横に、鯉が泳ぐ小さな川(池)…“千住おおはし”と書かれたちいさな橋。川岸には、笠と杖…
橋を渡った先には、“松尾芭蕉”の『矢立初め』の句碑。
“奥の細道”の旅への出発地…脇に建てられた板には、芭蕉さんが話しをしているように書かれた解説が…やはり、南詰から ですかね。
そして…富士塚。その一角、前に沢山の小さい鳥居が奉納されている覆屋の中に奇岩“瑞光石”。薄めで平らなちょっとぷつぷつしてる石。
って、解説板を読んだら、“古墳”としての小塚に瑞光石があり、そこを富士塚という形にしていったものらしぃ。
さらに境内の隅の方に行くと…庚申塔が並んでる。“地蔵堂”と呼ばれ、荒川区指定有形民族文化財に指定されているものだそぉな。観音様が彫られた石碑、素敵…
ついでに…その並びに建てられたトイレ…その前には、『年中無休会場 天王ラジオ体操会 会場 毎朝6時25分』…なんか、ほほえましぃ。
と、他にも境内隅ぐるりといろいろ石碑が建てられ、見所多し…樹々もこんもり、でも明るくて…居心地すごくいぃ〜(2014.6撮影)
「小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で『てんのうさま』とも呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、珪石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて信託を告げたという。そのためその石は『瑞光石』と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
宝暦年間(1751〜64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保9年)にその雄壮な様が描かれている。
荒川区教育委員会」鳥居脇案内板より
《瑞光石》
「瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、『瑞光珪石』とも称される。また、この塚を『古墳』と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
嘉永4年(1851)には周囲に玉垣を築き、元治元年(1864)には浅間神社を祀った。
万延元年(1860)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
荒川区教育委員会」境内案内板より
《天王社の大銀杏》
「素盞雄神社境内は、古来より『あすかの森』と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
この大銀杏は、幹の周囲約3.3m、高さ約30mである。
この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
荒川区教育委員会」境内案内板より
《大祓》
「6月30日
我が国古来の信仰である神道では、人は生まれながらにして「浄く明るく正しく直く」の誠の心をもつと考えます。この神事は6月と12月に斎行する罪穢(つみ・けがれ)を祓い清めるもので、前者を「夏越し(なごし)の祓」・後者を「年越し(としこし)の祓」といい、私たちが日々の生活の内に、知らず知らずに罪を犯し、穢に触れ、本来の心から遠ざかって行くことを防ぎ清めます。
[形代(かたしろ)]氏名年齢を書き込み、息を吹きかけ罪穢を移し、身を撫で無病息災を祈り、我が身の代わりとして納めます。神事を斎行し、大川に流し去ります。
[茅の輪 蘇民将来子孫也]スサノオノ命(みこと)が遥か遠く南の海に妻問いに出かけたときのことです。陽は既に暮れ、旅に疲れはてたスサノオノ命は蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。裕福で立派な家に住む弟は、顔もやつれ衣服も汚れた姿を見て、怪しみ惜しんで貸しませんでしたが、家も小さく貧しい生活をしていた兄は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをしました。
そして歳月がたち…再びその地を訪れたスサノオノ命は、兄にその時の御礼を言い、『もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。』と伝えて帰りました。
そしてその後…突然二人の住んでいる村に疫病が流行りましたが、不思議なことに茅の輪をつけていた兄の蘇民将来の家族だけは助かり、弟の家は何時しか途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行ると『蘇民将来子孫也』と口々に唱え、茅の輪を腰に付けて疫病から免れるようになったということです。
この《蘇民将来子孫也》は、ふりかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノ命にお護りいただく言葉として、またその腰に付けた小さな茅(かや)の輪は、6月の大祓に御神前に設ける大きな茅の輪や茅の輪守となって現在に伝わっています。」境内解説板より
《富士塚》
「素戔雄神社には“瑞光石”が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚は、ある人の眼には富士塚として映り、“南千住富士”とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。
この塚には、“瑞光石”に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に“浅間神社”の碑がある。その脇から頂上に登山道が伸び、途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑、頂上には浅間神社奥宮がある。塚には、“黒ぼく”という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。
明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に、黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀った(但し、元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると、造立当初から大正期にかけて、碑が断続的に建てられていったようである。
その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め、●中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)、今日の姿に至っている。」境内案内板より
《境内社》
福徳稲荷神社:宇迦之御魂神
「稲荷の神は元々は農業の神。米一粒が何倍にも殖産の神として崇められ、諸産業の守護神として信仰されています。
この福徳神社は、古くより当社門前の方々の御奉仕により、毎年2月“ニの午”に稲荷祭を斎行しています。」境内案内板より
菅原神社:菅原道真公
「道真公は平安時代初期の人で、学問の名家に生まれ、文章詩歌に優れた才能を示し、政治家としては右大臣にまでなりました。教養があり立身出世し、“学問の神さま”広く“文化の神さま”とも仰がれています。
『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて春なわすれそ』(春になって東の風が吹いたなら その香りを届けておくれ 私の家の庭の梅の花よ 主人がいないからといって春を忘れるなよ 〜九州太宰府へ行くことになり京都の自宅の庭の梅を見て詠んだ歌)」境内案内板より
稲荷神社:宇迦之御魂神
「“うか”は食物、“稲荷”は稲生りを意味し、御神像が稲を荷っているところから“稲荷”の字があてられたといわれています。稲(米)は命の根(イネ)。食物の中心であり、食物は生命の元であるので、その“みたま(魂)”を宇迦之御魂神と称え崇めています。」境内案内板より
《庚申塔群三基(寛永十三年銘他)》荒川区指定有形民族文化財
「江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事“庚申待”を3年間継続した諸願成就の証しとして建てられたものです。
中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には“庚申講供養”と“念仏講供養”の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には“青面金剛”の文字が刻まれています。
寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。(平成18年1月13日指定)」境内案内板より
『知っていますか? 天王様のこんなこと』(境内案内板)
《素戔雄大神》御祭禮 6月3日
「天照大御神の御弟神。八岐大蛇を退治した勇敢な神様で、大蛇から助けた稲田姫との間に多くの御子神をもうけ、出雲国須賀という地で幸せな家庭を築いた神様として知られています。
“スサ”には“荒・清浄”の意味があり、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しき諸々のことを、荒々しいほどの強い力で祓い清める災厄除けの神様です。別名を牛頭天王ということから、当社の通称を“お天王さま”といいます。」
《飛鳥大神》御祭禮9月15日
「大国主神の御子神。別名を事代主神・一言主神といい、善悪を一言で判断し得る明智をお持ちです。後世には福の神としての性格が強まり、商工業繁栄・商売繁昌の“えびす様”として崇敬されています。」
《蘇民将来子孫也》
「スサノオノミコトが、遥か遠くの南の海に妻問いに出掛けたときのことです。陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは、蘇民将来・巨旦将来という名の兄弟に宿を乞いました。
裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服もよごれたその姿を怪しみ惜しんで拒みましたが、兄の蘇民将来は家も小さく貧しい生活をしていたものの、快く歓迎し、栗の飯で精一杯のもてなしをしたのです。
それから歳月がたち…。スサノオノミコトは再びその土地を訪れました。そして、かつて自分をもてなしてくれた兄の蘇民将来に御礼を言い、『もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅で作った小さな輪を腰につけていなさい。そうすればきっと、その疫病から逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。』と伝えて帰りました。
その後のこと、二人の兄弟が住む村に突然疫病が流行しましたが、茅の輪をつけていた蘇民将来の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行すると口々に『蘇民将来子孫也』の言葉を唱え、茅の輪を腰につけて疫病から免れるようになったということです。
この《蘇民将来子孫也》は、降りかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく言葉として、また、その腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」
《素盞雄神社と千住の大橋》
「瑞光石と大橋:
御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩[瑞光石]。
文政12年(1829)編纂の『江戸近郊道しるべ』には、大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川まで延びていた為に、橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
千住の綱引き:
江戸時代のお祭りガイドブック『東都歳時記』には、当社のお祭り(天王祭)最終日に、大綱の南北を引き合い、その年の作物の吉凶を占ったことが紹介されています。綱引きは江戸では珍しいお祭りで、大変有名であったようです。
農業にとって大切な水。その綱は、雨を降らせる神様の姿である龍や大蛇を表しているともいわれています。かつて綱引きは農業に関る祭事として行われていたのです。」
《荒川区から荒川が消えた!》
「昭和7年10月、南千住・三河島・尾久・日暮里の四町が合併し、区の周りを流れる荒川を区名とした荒川区が誕生しました。
これは徳川家康公の江戸開府により最初に架けられた千住の大橋から上流を“荒川”、下流を“隅田川”と呼んでいたことによります。
文字通りの荒ぶる川ではありましたが、肥沃な土地をもたらし、物資水運の集散や利便性の高い工業地・住宅地として町を成長させました。
しかしながら、昭和40年3月建設省令により、岩淵水門より下流域の“荒川を隅田川”、昭和5年完成の水害対策の為の人口河川“荒川放水路を荒川”と呼ぶように定められ、荒川区から歴史ある“荒川”が消えました。
“荒川”は、荒川区にとって母なる川であり、素盞雄神社にとっても強い結びつきがあります。このことを心に刻み、絶えず流れる川のたどった歴史を愛おしみ、大切に護り伝えたいものです。」
松尾芭蕉句碑
「こんにちは 松尾芭蕉です。
深川を出て、いま千住に着きました。
いよいよ前途三千里(奥の細道)へ出発するのですが、最初の一歩がなかなか出せない問題があります。
(千住の大橋)南詰・北詰。どちらから出発したら良いものか?
些細なことのようですが、後世の両岸にとっては矢立初めの地として本家争い・論争の種にもなりかねない問題なのです。
現実的なことでは川の通行の右左・宿場の大小などですが、詩情豊かな紀行文です。旅は[他の火]で、川は生と死の境界、その向こう岸(彼岸)へ旅立つ訳ですから…。
わたくし松尾芭蕉、悩み疲れました。
すこし落ち着きたいと思います。丁度この地には、下野(しもつけ)大関様の下屋敷もあり、旅立ちのご挨拶を兼ね、花のお江戸との御別れの宴でも…。
では、七ヶ日間ほど逗留することにします。お籠りも兼ねて。
この間、道中笠と杖は使いませんので、ここに掛けておきます。
修験出羽三山とも御縁の深いお天王様ご参拝のこれまた御縁。
宜しかったら、かぶってみてください。
元禄2年(1689)弥生も末の七日の私:松尾芭蕉が何処に立っていたか、(千住の大橋)手前南詰か?向こう北詰か?
ぼんやりと春がすみの中から見えてきませんか。」
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