吉原弁財天本宮
逃げ込むように境内へ…
お掃除をしているおばさまが「雨降ってきたねぇ」と声をかけてくださる…お邪魔します…
さほど大きな木があるわけではないけど、なんとなく雨がしのげる。
とりあえず、邪魔をしないように奥へ奥へ…なんだか迷路みたい…
一番奥が、あの絵が描かれたお社。間近で見ると、屋根も壁も扉も階段も、とにかく鮮やか。
2012年に地元の有志の方によって、明るいこの姿に生まれ変わったらしぃ。
お参りをしてると、背後の池でばちゃばちゃと…おばさまが、鯉に餌をあげてる。
この池は、弁天池?花園池?…の名残?
(昭和22年頃の航空写真を見ると、隣のビルと駐車場のあたりに大きな池が広がって見える)
とりあえず、
境内をぐるりとまわってみる…
一番目立つのは、築山とその上の観音様。関東大震災で犠牲になった吉原遊郭の方たちの慰霊のためにつくられたものとのこと…
他にも、慰霊碑やお地蔵様などが沢山…
なんとも切なくなってくる。
掲示板に、震災時の弁天池の白黒写真なども貼ってあって…言葉を失う…
時代劇や小説の中でしか知らない“吉原遊郭”。
はるか昔の“物語”のように感じていたのだけど、
その歴史が幕を閉じてから、まだほんの60年ほどしか経ってない…
よく、神社のご利益は“その神様がなし得なかったもの、手に入れられなかったもの”と言われるけど…
こちらの神社では、願い事をするというより(そもそも、願い事をするって苦手なんだけど…なぜかいつも緊張して、気がつけば「こんにちは…はじめまして」とか、挨拶してるw)、
己を振り返って自分を鼓舞したい気分にさせていただけた…ありがとうございます…(2016.9撮影)
《新吉原花園池(弁天池)跡》
「江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
平成10年3月 台東区教育委員会」
《花吉原名残碑》
「吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和3年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦3年(1657)の大火を契機に、幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され同明暦3年(1657)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和33年(1958)「売春防止法」の成立によって廃止された。
その名残を記す当碑は、昭和35年(1960)地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古による。
昭和41年(1966)の住居標示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
平成17年(2005)3月 台東区教育委員会」
『二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に繁栄し やがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ 万客粹を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を残すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が 悲しき墓標の営みなりけりと云爾
昭和三十五年五月二十一日
白面青客 山路閑古 撰並書』
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