Matsumushihime-Schrein
サブ駅名か?………なぜに『松虫姫』。
さっそく調べてみると…“松虫姫伝説”なるものが…
スタッフが「Shock and Trauma」を背中に掲げた救急病院の立地にぴったりだわ…
Nur an der Station, an der ich wegen meines Mitgefühls ausgestiegen bin、Dient auch als Gebet zur Heilung、Ein alter Tempel, der die Bühne der Legende ist、Und der Schrein, der die Prinzessin verankert ... muss ich besuchen。
ちなみにこの“印旛日本医大駅”の駅舎は、かなり個性的。
「街のシンボルになるように」ということでこんなデザインになり、一般公開されてはいないものの展望台があって、改札前のイベントなども行なえる広場は高い天井からの自然光で明るく、バリアフリー対策もバッチリ…なんだそぉな。
印旛日本医大駅前ロータリーで病院行きの無料送迎バスを待っていると、正面に伸びる成田スカイアクセスの線路の左手に、こんもりとした小山が見える。そのあたりかと目星をつけていたのだけど、実際にはその小山手前をさらに左に回り込んだ先だった。
(線路の反対側、小学校の裏手に見える丸い屋根のあるところが、“松虫姫公園”)
駅周辺ににょきりとたつマンション、その先には整然と立ち並ぶ一戸建て…道広く、明るい新興住宅街。
平日の日中のせいか、行き交う車はまばらで、歩いている人は皆無…
駅から遠目に見えた小山に近づくにつれ、まだ開発されていない空き地が増え、そして畑…農家…いつのまにかタイムスリップしちゃったような光景…なんだか切なく懐かしい。
寺への曲がり角には、枝が不思議な感じにねじれた巨木。見上げながら回りこんでみると、五段ほどの石階段と、Ein kleiner Schrein。その横に、ずらりと庚申塔…
そのすぐ先に…松虫寺。朱が程よくあせた山門…左右の仁王像も朱色で美しぃ。本堂はその右手の方にひっそりあるのだけど、入り口の小さい門に縄が張ってありその先へは進めず…
in、山門をくぐると、右手に鐘楼、正面に薬師堂。
このお堂の左後ろに“松虫姫神社”。梁の彩色の鮮やかさにうっとり…
お堂の右後ろに、松虫姫の御廟もある…石の扉は開いていたのだけど、囲いの外からひっそりお参り。
その手前には六所神社も…木の鳥居が素敵。
このお寺には、重要文化財指定の秘仏“七仏薬師”があり、33年に一度のご開帳で、前回が2012年11月だったそぉで…次回は2045年………お目にかかるのは無理かも………
…約2年越しでやっと“お礼参り”果たす。感涙…(2015.3、2017.5Schießen)
松虫寺の概要
「松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平17年(745)僧行基の開創と伝えられ、始め三輪宗、のち、天台宗、und、真言宗に所属し今日に至っている。寺伝によれば、聖武天皇の第三皇女松虫姫(不破内親王)が重い病に患われた時、不思議な夢のお告により、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたと言う。
現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一木造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和34年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は江戸時代、亨保3年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木丈山、薬師堂の偏額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政11年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。
平成8年7月 摩尼珠山、医王院、松虫寺」境内案内板より
「真言宗豊山派管長 平林宥高題額
摩尼珠山松虫寺の開創は奈良朝の天平17年人皇第45代聖武天皇の勅願によるものと云われ創建当初は三輪宗に所属したが平安朝の末期ころ真言宗に移籍されて今日に及んだと伝えられている 本尊の七仏薬師如来像はその移籍当時の造像と見られ藤原期彫刻の特色を具えた貴重な群像として昭和34年6月重要文化財の指定を受けるに至った 然るに近年堂宇の荒廃頓に著しく防災上憂慮尠からざるためこれが保存施設の建造を発願し関係諸機関と鋭意折衡の結果昭和43年度国庫補助事業として保存庫建設の許可を得たので直ちに壇徒総代並に地区内有志を以て保存庫建設委員会を組織し工事の進捗を期したこの開国県村より夫々工費の補助を仰ぎ施設の設計を東京芸術大学助教授伊藤要太郎氏に委嘱篠田建設株式会社の施工により昭和43年10月着工昭和44年3月その施工を見るに至ったここに於て更に殿舎内外の施設整備のため近郷篤信各位の喜捨浄財を得て昭和45年4月尊像を新殿に奉遷し奉る 乃ち茲に如上の経緯を記し併せて工事関係者並に篤信の芳名を刻銘して此の碑を建立する
昭和45年10月 摩尼山現住 岩井稚芳撰並書」
鋳銅孔雀文馨 一面(千葉県指定有形文化財:昭和60年3月8日指定)
「肩幅21.3cm、絃23.2cm、総高14cm、撞座径5.7cmの鋳銅製である。
縁は菱型で内側に子縁をともない、左右の縦縁はわずかに反りを見せている。文様は表裏同文で蓮華文の撞座を中心に翼を張り、尾を下げる孔雀を相対して鋳出している。
馨はもともと中国の古い楽器で、木製の馨架につるして、僧の脇に置き勤行の際、撞座を打ちならす法具である。
無銘ではあるが、様式手法により製作時代は南北朝時代と推定され、本県内の他遺存例に比して作成も良好である。
Hinweis
A、信仰の対象ですから、見学の際には前もって所有者の了解を得てください。
A、直接触れる等、保存に影響を及ぼす行為はできません。
昭和62年8月 千葉県教育員会 印西市教育委員会」
木造薬師如来坐像 一躯・木造薬師如来立像 六躯 …七仏薬師(重要文化財:昭和34年6月27日指定)
「坐像を中心に立像が三躯ずつ左右両側にならぶいわゆる七仏薬師とよばれる形制で、平安時代後期の造像です。
像高は中尊坐像が54.3cm、六躯の立像はいずれも約38cmほどの小像です。みなカヤ材の一木造り(中尊のみ三道下で頭・体を割りはぐ。)で、彫眼、くちびるに朱をつけ、眉や黒目を墨で描いているほかは素地のままです。
各像とも総じて厚く肉取りし、衲衣はえり元広くゆったりと表わし、立像の腹部から両脚にそうY字形の衣ひだも簡潔に処理して、小像ながら、よく量感を出しています。
古様の七仏薬師は全国的にみても作例が少なく、貴重なものです。
Hinweis
A、信仰の対象ですから、見学の際には前もって所有者の了解を得てください。
A、直接触れる等、保存に影響を及ぼす行為はできません。
昭和53年3月 千葉県教育員会 印西市教育委員会」
※この仏像は、33年に一度御開帳を迎える秘仏とされている。直近の御開帳は2012年11月18日。次回は2045年の御開帳予定。(現在は、事前予約で拝観できる※学術的研究目的のみかも?)
鋳銅鰐口(印西市指定文化財:昭和51年6月1日指定)
「安土桃山期のもので、径36cm、厚さ11cm、重量7.9kg、材質は青銅製である。中央には複弁八葉蓮華文が陽鋳され、外縁部には『天正拾三年乙酉二月廿八日 松虫寺別當栄澄鵜澤信濃守 敏信(花押)羔使』
との銘文がある。この銘文から、1586年に鋳造されたものであることが窺え、また完全な形で保存されている事から貴重な資料といえる。鰐口は、仏教から生まれたもののようであるが、神仏習合思想の影響で神社、寺院にも用いられるようになり、天長地久 息災延命等諸願成就祈願のお参りの時に古くから打ち鳴らされてきたものである。
Hinweis
A、信仰の対象ですから、見学の際には前もって所有者の了解を得てください。
A、直接触れる等、保存に影響を及ぼす行為はできません。
平成9年2月 印西市教育委員会」
→「摩尼珠山松虫寺境内全図」(千葉県立中央博物館デジタルミュージアム)
緩やかな階段を降りていくと、池を囲むように遊歩道があるのだけど、枯れ芦に覆われた水面がなんとも切ない風情。さらに奥へ進めば、いきなり視界が開けてすっきりした調整池が現れる…
余談…ロータリーの右に見える茶色の建物…一見、消防署に見えるのは、ここがホントに元消防署の建物だからだそぉなのだけど…『医科器械資料館』。江戸時代の聴診器、国産第1号の脳波計、各時代の手術台、人工心臓など、貴重な医療機器が800点あまりも展示されているそうで、かなり興味津々なのだけど、開館日が月・水・金(10:00~16:00)…なかなか訪れられる機会が無い。
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