Ueno Toshogu
上野の森美術館では“進撃の巨人展”、東京国立博物館では“日本国宝展”…他にも動物園やら美術館、上野ならみどころ満載…な せいか、雨でも結構な人出…でも…東照宮は、人影まばら。
透塀の中に入るには有料(大人500円…社殿の中が見られるわけじゃぁない…)で、チラリと見てた限りでは、入る人は半々って感じで…
まるで貸し切りっワホイ…
Plonĝado ... Unue, se la unua en granda reliefo de la ŝtono estas bonvenaj ... tigro de la gepatra infano pentri la Kido?
Kaj turni la angulo、Rekta mallarĝa cobbled stratoj por la malantaŭa ... en la mezo、Arbo de granda granda ginkgo ... kaj、por malantaŭe、"Honoro granda Gongen" de konataj kiel "via mapache-kiel"。ion ajn、大奥や大名・旗本家など行く先々で災いをもたらしていたのが、東照宮に寄贈されてからはそれもおさまり、今では「“た”を“ぬく”」ということで『強運開祖の受験の神様』として信仰されてるそぉな。社殿を囲んで、ずらりと“合格祈願絵馬”が…
透塀の中へ…
mi、Haiden ankaŭ Nusa gluteoj & ĉefa sanktejo ankaŭ、Mi laboris nigra en brila ora、Sed ĉu estas tie ĉi kaj tie koloro vívido dekoracio、Toruhei ankaŭ tordi la oron surbaze Zhu verda filigrano kaj nigra tegmento、Bunta ornamado ...
きらびやかなのだけど、どっしりとした落ち着きも感じるから不思議。
en、塀の中…玉砂利が敷き詰められていて、橙(たぶん)の木や姿のいぃ大きな松の木が植えてある様は、お雛様を思い起こさせる。
中側から“唐門”をじぃっくり眺めていたら、外でお賽銭あげてお参りしてる気配…なんか、遮っちゃったみたいで…申し訳ないです………
たっぷり時間をかけて塀の中を満喫し、改めて境内を見回す…
燈籠が立ち並ぶ地面が水たまりになっていて、近寄りがたいのはちと残念だったのだけど、水面にその姿が映って、なかなかに幻想的。
大鳥居からちょこっと南にそれたところに、一際大きな石灯籠。これが『お化け燈籠』…名前から、なんか恐ろしげな伝承でもあるのかと思っていたのだけど、この巨大さによるものだったらしぃ。ちょいと離れた感じが、なんか淋しげに見えるのは気のせいか…?(2014.11撮影)
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改修工事は、2013年いっぱい続くそうな。改装オープンされたら、さっそく再訪しよっと。(2013.4撮影)
「元和2年見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言された そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627)に本宮を造営した その後将軍家光はこの建物に満足出来ず慶安4年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした。Ol "policdistriktoj respekteginda skribo
「藤堂高虎(1556〜1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追墓し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成21年3月 台東区教育員会」境内解説板より
文化財:
唐門(左甚五郎作竜)・透塀拝殿(金色殿)・幣殿・本殿・棟れ…明治40年国宝指定
銅灯篭・表参道大石鳥居…昭和17年国宝指定
紅葉山鳥居(寛永3年)・石灯篭220基(慶安4年)・水舎門(慶安4年)・お化け灯篭(寛永8年)
茶室(明暦2年)・新門辰五郎水舎(明治6年)・神楽殿(明治7年 勾配の美都下随一)・陣羽織(都重宝)・辻ヶ花染胴服(都重宝)
社殿・透塀・唐門・大石鳥居は昭和25年文化財保護法の制定により、国重要文化財に指定
《銅燈籠》台東区上野公園9番
「東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの、照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献二基、同年4月17日奉献四十五基、同5年孟夏17日奉献二基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、Nomumita kiel nacia grava kultura posedaĵo。
平成8年7月 台東区教育委員会」銅燈籠前 解説板より
《透塀(すきべい)》
「1651年建築。国指定重要文化財。
向こう側が透けて見えるのでこの呼び名があります。社殿の東西南北を囲んでおり、上段には野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が計250枚、約90種類彫られています。
鳥や獣の他、蛙や貝、鯰、昆虫など珍しい彫刻もあり、実写的なものから大きくデフォルメされたものまであります。
これらの彫刻は創建当時、極彩色であったと思われますが、その後の修理で弁柄漆で上塗りされたと考えられています。平成21〜25年の保存修理工事では江戸創建当時の姿を蘇らせるために全ての彫刻に彩色を行いました。彩色は生彩色と呼ばれる方法で行いました。生彩色とはまず金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法です。絵具は創建当時と同じ岩絵具を使用しました。彫刻の形から動物の種類を推察し、当時の彫刻や絵からどのような色で描かれていたかを調査し、有識者間での検討を重ねて色を決定し彩色がなされました。」境内解説板より
《唐門》
「1651年建築。国指定重要文化財。
正式名称は唐破風造り四脚門。
柱の内外四額面には、日光東照宮の『眠り猫』で有名な左甚五郎作の『昇り龍・降り龍』の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれています。
両側上部に錦鶏鳥の透かし彫りがございます。透かし彫りが裏表どちらから見ても美しく見えるように一本の木を両面から彫り出す高い技術が必要なもので、室町桃山時代の技術を集大成したものとして評価されています。
両側中央にある透かし彫りは諌鼓鳥というモチーフです。昔、中国の皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、天子の政道に誤りがある時は人民にそれを打たせてその訴えを聞こうとしたが政治に誤りが無く、打つことが無かった為、鶏が太鼓に住みつくほどであったと言う故事に由来します。徳川の世が天下泰平であるように願いを込めて彫られたと考えられています。」唐門脇解説板より
「佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛未孟冬十七日
と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ6.06m、笠石の周囲3.63mと巨大で、その大きさゆえに『お化け燈籠』と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
平成8年7月 台東区教育委員会」お化け燈籠前 解説板より
「寛永2年(1625)二代将軍徳川秀忠が天海僧正に上野忍ヶ岡の地に江戸幕府の安泰等を祈願する目的で創建させたのが東叡山寛永寺です。
当時その工事の総奉行をしていた老中土井大炊頭利勝が寛永8年(1631)今の地に上野東照宮(1627造営)の一部として五重塔を創建寄進しました。
しかし同16年(1639)火災により焼けてしまったので、直ちに日光東照宮を大改修した当時一流の建築家と言われた甲良豊後守宗広らに命じて同年再建しました。
その後明治の神仏分離令により東叡山寛永寺の所属になっていたところ、昭和33年同寺より東京都に寄付されたものが今の塔です。
塔の高さは約32メートル(初層と呼ばれる第一層は約4メートル85センチ)です。
様式としては珍しいもので、江戸時代の多くの五重塔が初層から四層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は、全層が和風様式です。
また建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いている構造になっています。
心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔には多く見られる一方でこの塔は、土台にしっかりと建てられた桃山時代によくみられた建築構造になっています。
屋根は本瓦葺(第五層のみ銅瓦葺)を使用しています。
塔をよく見ると、初層上方の建物の桁を受ける支持材の蟇股に十二支が装飾され、各層の軒下の角隅部には四頭ずつ龍の彫刻が配されています。
この塔は江戸初期を代表する優れた建築の一つであり、明治44年に国の重要文化財に指定されています。
Ni notu、この塔の初層内部には心柱を大日如来にみたて、それを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる彌勒・薬師・釈迦・阿弥陀の四仏が安置されていました。
(現在四仏は東京国立博物館に寄託されています)」案内板より
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