五十稲荷神社(永寿稲荷大明神)
新しくなったらまたぜひお参りさせていただきにこよっと。(2018.4撮影)
「創祀の時代は詳らかではなく、慶長の頃(西暦1700頃)既に当地に御鎮座され、徳川家に於いて安産守護神として厚く崇敬せられたと伝えられています。
正徳の頃(西暦1750頃)栃木県足利の戸田長門守が当地を拝領し、屋敷を構えるに及び、当社地もその邸内に入り、戸田家で当地の鎮守として奉祀され、故郷の足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神(現 雪輪町稲荷神社)も合わせ祀り、永寿稲荷大明神と崇め奉り、崇敬の誠を尽くしたのであります。
当社は昔から『五十稲荷』といわれていますが、起源は古く戸田領足利で織物の市が五と十のつく日に開かれるのが慣わしであり、江戸の戸田邸でもその繁栄を祈願する為に、毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と二月の初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許しました。
明治になり、廃藩置県制度により大名屋敷が町屋となり当社の御祭祀も崇敬者等により承け継がれ、一年を通し毎月五と十のつく日には多くの参詣があり、後には縁日が立ち『五十様の縁日』と呼ばれ、東京市内でも有名になり、俗称として『五十稲荷』と呼ばれるようになりました。
当社の公の社号は『稲荷神社』であり、明治五年に公認の『神社』として列格致しました。
大正十二年(西暦1923)の関東大震災迄は現在地のすぐ横に約二百坪の境内地がありましたが、震災後の東京市土地区画整理により、現在の地に縮小移転させられました。
平成七年五月吉日 記」境内案内板より
《五十稲荷神社 御社殿並びに社務所 建て替えのお知らせ》
「拝啓 時下益々御清祥の御事とお慶び申し上げます。
平素より、当神社のために格別の御高配を賜り、感謝しております。
五十稲荷神社の現在の社殿及び社務所は、第二次大戦の終戦後に建てられたもので、建築から六十五年以上が経過しており、あちこちの損傷が激しくなってまいりました。都心のビルの谷間にある神社だからこそ後世に残し、日本の文化と伝統を伝えていかなければならないと考え、この度の改築を行う運びになりました。
奇しくも、三丁目九番地の共同ビルの改築にともなう再開発の提案がありましたが、神社としての独立性を保つために独自に行うことになりました。
氏子を要しない崇敬神社の当社にとりましては、地元町会の皆様、ご参詣崇敬者の皆様のお力添えがあってこそ可能なことと考えております。
皆様におかれましては、このたびの事業に深いご理解と趣意にご賛同頂きまして、格別なるご浄財のご喜捨を賜りますよう切にお願い申し上げます。
なお、募金につきましては、後日お知らせをいたします。
平成28丙申年吉日
記
事業概要 御社殿並びに社務所 建て替え・境内整備
工事期間 平成二十八年春より平成二十九年春(予定)
総工事費用 金、壱億圓
募金目標額 金、五千萬圓
宗教法人 五十稲荷神社 宮司 鳥居 繁
設計趣旨/
五十稲荷神社の付近一帯はビルや商業施設が立ち並ぶ地域であり、その多くが無機的な建築物によって占められている。そうした中で、古くからある五十稲荷神社は、境内の大きなイチョウ、スダジイと共に特徴的な場所となっている。その古い神社の社殿及び社務所の建て替えである。
社と社務所(住居部分)を計画するにあたり、まずこれら既存の樹木を残すことを優先して建物の配置計画を行った。前述したように、神社周辺は商業施設が多く、大通りの裏手ということもあり、雑然とした印象である。緑を感じることのできる場所もほとんどないといってよい。こうした場所で古くからある樹木を残すことは、神社自体の歴史を伝えていくことでもあり、また、地域や人々にとっても、憩いの場所、にぎわいを創出する場所として貢献できるはずであると考えた。既存の樹木を残し、ゆくゆくは新たに木々を植えることによって、緑がやがて成長し、将来的に五十稲荷神社の鎮守の森となる構想を抱いている。これまで以上に親しまれる街中の神社をめざしている。
新たに建てる社は、銅板葺きの屋根を架け、できるだけ仕上げに木材を使い、既存の社の建具等を再利用し、元々ここにあるかのような建物にしようと考えた。しかし単に伝統的な意匠とするのではなく、ガラスやコンクリートの斫り仕上げを取入れるなど、新しい試みも検討している。
社務所は鉄筋コンクリート造の打放し仕上げであるが、瓦や銅板といった、日本の伝統的な材料を屋根材として用いることで、冷たい印象を与えがちなコンクリートの仕上げが和らげ、社との調和を図っている。」
「五十稲荷神社は、創祀の年月は詳ではありませんが、社伝によりますと、徳川時代(江戸参勤交代の行われた頃)、慶長の頃、既にこの地に鎮座されており、京都伏見稲荷神社より御霊を奉戴、安産守護神として、厚く崇敬せられたと伝えられております。
くだって正徳の頃(約三百年前)戸田長門守がこの地を拝領し、邸をかまえるにあたり当社地もその邸内に入る事になりました。戸田家に於いてはこの地の鎮守として奉祀致す事となり、領地足利市雪輪町御陣屋大門に奉斎する“稲荷大神”(現・雪輪稲荷神社)をも合祀して、『栄寿(えいじゅう)稲荷大明神』と崇め奉り、代々継承ぎ伝えて祭祀を修め、崇敬の誠を至されたのであります。
御祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと。食物を司る保食神)であります。
戸田家は足利領に於いて織物市を開くのに、五・十の日を以てする慣わしでありまして、江戸邸に於いてもその繁栄を祈願する為に月次の祭事を五・十の日に執り行い、月々の祭日・初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許したのでありました。明治になりましてからは、この地を町屋とし、ここに居住する数十名の借地人ができました。同時に借地人は崇敬者となり、当神社を御守護しておりました。町内崇敬者は総意をもって願い出て、明治五年に公認の神社として列格したのであります。慣わしにより、五・十の日には遠近よりの参詣者があり、後にはこの日に縁日市が立つようになりました。五十稲荷神社の正式の社名は、『栄寿稲荷神社』と称しますが、前述の通り毎月立ちます縁日の『五の日』と『十の日』とに由来し、『五十様の縁日』と呼ばれ、都内でも有名なものとなりましたので、後に俗に『五十稲荷神社』と呼ばれる様になり、今ではそれが社号のようなこのになっている誠に由緒ある神社であります。
明治、大正、昭和と三代にわたり毎月五日、十日、十五日、二十日、二十五日、三十日には縁日がたち、非常に賑わいを見せ、土地の発展にも大いに寄与いたしてまいりました。この賑わいは、明治32年発行の『風俗画報増刊 東京名所図会 神田区之部』の中に、当時隣にあった映画館『南明館』とともに描かれております。平成の代になり、縁日ことたつことはなくなりましたが、都心の中心地に鎮座する神社として、人々に心の安らぎを与え、地域との交流を図る役割を担うものとなっています。
漫才師の内海桂子師匠が、幼い頃に近所の蕎麦屋『更科』に丁稚奉公していた時に、『五十様の縁日』によく来られたと伺っております。」配布由緒書きより
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