駒込富士神社
さらに奥へ進むと…一際大きなご神木、その奥に駒込富士!!
富士山から運んできたという溶岩で固められた山の斜面には、鳶の石碑がいっぱい。文字や模様に色付けされているので、なんとも賑やか。
23段ほどの階段は、かなり急で…結構、こわい…
のぼった先は、意外に広い。
社殿は戦後に再建されたものだそうで、爽やかな雰囲気。
山頂のへりに、安産神符授興の石碑や曽我霊社、小御嶽社など…ってその脇から、ゆるやかな女坂が………
改めて、ぐるぐるっと斜面の石碑を眺める…壮観だわぁ〜
富士塚って、なんでこんなにワクワクするんだろ…山開祭、きてみたいな。(2018.3撮影)
「富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の『お富士さん』が多数出来た。文京区では、『駒込のお富士山』といわれるここと、護国寺の『音羽の富士』、白山神社の『白山の富士』があった。」案内板より
《江戸・東京の農業 駒込ナス》
「幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。
このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。
とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり。タネ屋に卸していました。 現巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種に大きく貢献していました。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業」案内板より
《旧町名案内:旧 駒込上富士前町》昭和41年までの町名
「もと伝通院の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延享2年(1745)から町奉行支配となった。
富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。
明治維新後、旧柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。
町内に都立六義園がある。柳沢吉保(5代将軍綱吉の側用人・大老格)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。江戸大名庭園の代表的な名園である。
明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。」
壁に東洋の名言が原語。(翻訳日本語付き)
オリエント・カフェでは、シーボルト・ガルテンを眺めながら小岩井農場と共同開発したメニューがいただける。
9:00〜17:00、年末年始休園
» オフィシャルサイト
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