【番外編】駒込吉祥寺(曹洞宗 諏訪山 吉祥寺)
六義園のしだれ桜を見たかったのだけど、たぶん、タイミング逃してる…ちょっとでも残ってるかな?残ってたらいぃな…
とりあえず、途中、目赤不動尊のある南谷寺へも寄りつつ、本郷通りを北上。
とても良い天気で、ところどころでまだ桜咲いてるぞ。
と、一際目立つ大きな門…“旃壇林”。
その門を皆続々入っていくので、覗き込んでみると………
おぉ〜ほわわんとした薄桃色が奥まで続く、気持ちよさげな参道がっ
ここがウワサの吉祥寺さんですな。…武蔵野市の吉祥寺には吉祥寺は無い というアレの…
青い空、白い小石、薄桃色のしだれ桜…なんとも気持ちいぃ。
そして、参道の途中、左手にお稲荷さん。
さらに、お地蔵さんが並んでたり、お七さんと吉三郎さんの比翼塚がたってたり…
そしてそして、大仏さん。階段のぼってすぐそばまでいける!
周囲ぐるりとめぐってみる。たのしぃ…
さらに参道を進むと…
今度は右手…重厚な屋根の下に鐘楼。その奥に、全体的に重厚な雰囲気のお堂。
正面左右に狛虎。経蔵だそうな。もちろん閉まってるけど、扉のまわりなどに施された彫刻なんかを眺めるだけで、うっとりできる。
そして、本堂。
お寺のこうなんというか…堂々とした感じ、好きです…
威厳! という感じで…
それなのにそれなのに…!!
正面左右の狛犬さんがっ!かわいすぎる!!
ふにゃらとしたお顔に、じゃれつくワンコみたいなポーズ。
愛くるしい姿に、ついつい頭などなでてしまったり…
本殿正面の左手に、白い観音様。縁結びのご利益があるそうな…
参道の左右にお墓が並んでいるのだけど、有名な方のお墓なんかもあるそうで…
とはいえ、観光!って感じで足を踏み入れるのは申し訳なく…
でも、参道すぐのところの二宮尊徳さんの墓碑はお参りさせていただく。
尊徳さんって、薪背負って本読んでるアノ金次郎さんだよね?
…くらいしか知らなかったのだけど…
って、像になるくらいなんだから、そもそも功績ある人だったんだろ なんだが…
ちなみに、尊徳さんの“報徳思想”というのは、ざっくりいうと「私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元される」ということなんだそぉな。
耳が痛いですな…
(2018.3撮影)
「長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から『吉祥』の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、『吉祥寺』と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として旃檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
古い堂塔
山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
経蔵 文化元年(1804)再建、旃檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。
墓所
二宮尊徳(江戸末期の農政家) 墓地内左手
鳥居耀蔵(江戸南町奉行) 墓地内左手
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家) 墓地内右手
川上眉山(小説家) 墓地内右手
文京区教育委員会 平成6年3月」案内板より
《経蔵 一棟》区指定有形文化財(建造物)
「江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所 旃檀林として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)古いきまりによって再建したものと考えられる。
旧経蔵は、1986(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失と伝えられる。1933年(昭和8)に大修復を行った。
屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた『二重宝形造り』である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。
蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。
文京区教育委員会 平成8年3月」案内板より
《縁結び吉祥観音》
「この観音像は中國唐代の観世音菩薩像を日中國交回復拾周年を記念して文革後伝統技術作興のため中國政府が特に呉永金氏に復原謹作させ北京市建築芸術塑工房より招来されました。日中の文化交流の縁結びの因縁よりひいては世の諸々の人の良縁を示現される観音像であります。蓮華と荷葉を御手にもたれたお姿で勝縁尊縁が衆生に開示されてやがてはみごとな吉祥の大きな佛果功徳をお授けくださる尊容を敬礼供養し世界平和社会安寧山門鎮静檀信徒各家祖霊追善福徳萬壽無量の佛徳が好因を結び大吉祥底ならんことを希い造建を発願いたしました。
昭和58年葵亥四月八日 開眼了 文海昭典拝識」由来石碑より
《二宮尊徳の『墓碑』》
「天明7年─安政3年(1787〜1856)。相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。
人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。
その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中、病死する。彼の思想・行動は後に『報徳社運動』として展開するようになった。
東京都教育委員会」案内板より
《茗荷稲荷》
「当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、寛文年間病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、茗荷を経って心願する者多し。去る戦災に諸堂焼失せるも昭和28年この地に再建、堂裏にある茗荷権現碑は下総国府台八十右ェ門なる者が文久年間建立したものなり。」案内板より
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