真徳稲荷神社
背後には10階建てほどのビルがそびえ、左右は三階建ての隣家とフェンスで囲まれた空き地。白い塀にぐるりと囲まれ、とてもこじんまりとした境内ではあるけど、
きれいにお掃除されていて、狐さんには修復のあとが見られ、社殿はつややか…
とても気持ちのいぃお稲荷さんだった…(2018.5撮影)
「掛巻も畏き真徳稲荷神社の縁起を謹みて記す。
真徳稲荷神社の期限は古く先人の生活の中に始まり、神田明神の鎮座と時を同じく、京都伏見稲荷大明神の御分霊と古老の伝えるところである。明治六年一月十六日神田明神の兼務社となり、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神として崇敬者も広く今日に伝えられる。
大正十二年九月一日の関東大震火災は、死傷者、障害共に史上最大の災害にも拘らず、当町内の犠牲者極めて少なかりしは、偏に真徳稲荷御加護の顕示に崇敬の念愈々厚く深きを加えたり。
降って第二次世界大戦勃発、昭和十六年十二月八日、我が国も米英と交戦の己むなきに到りしが、戦況我に利なく、昭和二十年二月二十五日の空襲により、社殿は焼失するも、幸い御神霊は無事にて、直ちに仮社殿を造営奉安の上神事を滞りなく執り行なう。偶々町内に鎮座まします二稲荷神社も戦災を蒙り、同仮社殿に合祀し、心ならずも時の到るを待つ。
昭和二十八年、近隣に火災ありしも、神域よく防塞となり、大火に到らず、御神徳の広大無辺に崇敬者益々敬神の念昆陽せるも宣なる哉。
昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約により独立を回復し、占領下の町会結成禁止も解け、司町二丁目町会の再発足に際し、敬神の念夙に厚き初代町会長柴田直は、仮社殿に三稲荷合祀を深く憂え、伏見大社に恐懼拝聴せし処、合祀三御神霊を伏見大社へ還御相願い、改めて神格高き御神体の御分霊を冀うべしとの御沙汰あり、依って神田明神大鳥居宮司の命を受け、石橋権宮司の奉斎にて厳かにすべての神事滞りなく執行の上、正使柴田直、副使草壁竹蔵、佐伯清重、中山菊次郎、堀井平吉、小林長右衛門の六名、精進潔斎して捧持、伏見大社御前において厳粛壮重に還御の神事執行、新たに真徳稲荷神社を司町二丁目町会の守護神として、神格ある御神霊を畏み畏み拝受し奉る。
正使柴田直は御神霊拝受に当り、新社殿の造営を心奥に固く誓い、遍く崇敬者の上に御神徳の顕現を冀いつゝ無事帰京、直ちに神意を奉じ、社殿再建委員会を結成、大野儀重委員長のもと、柴田直一切の全責任を負い、社寺建築の専門技術林島作の設計により、誠心誠意施工に専念、偶々同氏は千代田区議会議員、地元小、中学校PTA会長、司町二丁目町会長を初め幾多公職を兼任、寧日なき立場を克服して、よりよき社殿造営に只一念神意に同化し、春風秋雨、暁鶏夕星、寸暇を惜しみ、八ヶ月の建設期間、精魂を傾けてその衝に当り遂に美事に社殿落慶を見るに到る。
この間町会員よく同調、進んで浄財を寄進、寸暇を割いて、地固め、資材運搬、コンクリート打ち等馴れぬ作業に惜しみなく奉仕し、加えて永田軍治氏の緻密な塗装等、物心両面の奉賛により、荘厳華麗な不燃社殿造営の快挙を成し遂げたり。
更に亦、境内敷地は、当社より長年月、地主 峰村陸氏の好意により無条件貸与のまま今日に到りしが、同氏は既に永眠せられ、未亡人マサ氏、嗣子 暢一氏の特別の配慮にて、敷地七坪八合を分筆して司町二丁目町会に無償贈与され、これを機に神田神社を通じて、神社本庁に神籍の確立するところとなれり。
因みに、千代田区には、神田神社を筆頭に神格保持社十三社あり、その一に列する当真徳稲荷神社は、日を追って弥益す崇敬者の敬神昆陽の基盤と確信し、茲にその経緯の概略を記して後世に遺さんとするなり。
昭和49年3月6日
氏子総代 柴田直
責任役員 古川三佐男 大野儀重 須藤源平 萩原徳太郎 永田軍治」境内案内板より
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