講武稲荷神社
神社名にある“講武”は、幕末にあった武術訓練所『講武所』が由来だと、歴女で伊庭八郎に詳しいツレが教えてくれた。
武術訓練所ははじめ“築地”に『講武場』として開かれたものが、数年後“神田”に移転、名称も『講武所』に変更。水道橋駅の南側にあったらしい。(講武所跡)
こちらの神社界隈は“講武所付町屋敷”とされ、ここに花街を作って“講武所”の維持費を捻出。その花街もまた俗に“講武所”と呼ばれたそうな。
天災・人災いろんな理由で移転や区画整理が行われたり、地名が変更になったり、訪れた神社のことをもっとちゃんと知ろうと調べ始めるとどんどん広がって、ちょいと混乱してくる…
でも、文献やブログ、いろんな方々があらゆる調査や考察をされているのを拝見するのは興味深く楽しいものです…感謝
…と、こちらの神社を訪れたから、なんとすでに2年経ってる…時間の流れの速さに愕然。
当時まだ周辺再開発の建設がはじまったばかりで、閑散とした感じだったけど、ずいぶん雰囲気が変わったようだな…また、お参り散歩行きたいな…(2018.5撮影・2020.8現在)
武術訓練所ははじめ“築地”に『講武場』として開かれたものが、数年後“神田”に移転、名称も『講武所』に変更。水道橋駅の南側にあったらしい。(講武所跡)
こちらの神社界隈は“講武所付町屋敷”とされ、ここに花街を作って“講武所”の維持費を捻出。その花街もまた俗に“講武所”と呼ばれたそうな。
天災・人災いろんな理由で移転や区画整理が行われたり、地名が変更になったり、訪れた神社のことをもっとちゃんと知ろうと調べ始めるとどんどん広がって、ちょいと混乱してくる…
でも、文献やブログ、いろんな方々があらゆる調査や考察をされているのを拝見するのは興味深く楽しいものです…感謝
…と、こちらの神社を訪れたから、なんとすでに2年経ってる…時間の流れの速さに愕然。
当時まだ周辺再開発の建設がはじまったばかりで、閑散とした感じだったけど、ずいぶん雰囲気が変わったようだな…また、お参り散歩行きたいな…(2018.5撮影・2020.8現在)
《御祭神》
宇之御魂命
《祭礼》
5月22日
【由緒】
「当社は旅籠町三丁目にあり 安政四年の鎮座にして 神体は宇之御魂命なり 一説に運慶作なりと伝ふ 昔時大貫伝兵衛なるもの当講武所附属地の払下を出願し其の許可を得んが為め浅草橋場なる長昌寺に安置せる此稲荷神社に参詣し 祈念怠ざりしかは遂に安政三年五月二十二日を以て 払下免許となりたる由 これが為翌年社祠を造営し其の本体を橋場より本社に移したるを以て創始として居る今尚ほ毎年五月二十二日を大祭日としてゐる。
尚段の社域は対象十二年の震災の際消失せるも其後区画整理により現在地に安置せられたり 一般に火伏せの神なりと其の霊の灼さを伝へられ更に此の火伏護神と共に花街の繁昌に貢献顕著だと伝ふので近隣の三業関係人は勿論遠く向島から参詣人が多く時ならぬ賑かさも有りと申されて居る。(古文のまゝ)
戦災で復興・昭和五十五年改装・このたび銅板にて由来板を新装しました
平成六年二月初午 外神田旅籠町会」境内由来版より
外神田1-9-2 » Google MAP
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