佐竹稲荷神社
小さな飲食店が軒を連ねる神田駅西口商店街。あちこちからいい匂いが漂ってくる…ちょうどお昼時ということもあり、結構な賑わい。
その一角に、ちょこんと鎮座。
こじんまりとした境内に入ると、喧騒が一気に遠のき、すぅっと涼しい…こういう感じがいぃんだなぁ…
涼んで一休みしたら…お腹が空いてきたっ
せっかくなので、商店街でなんかいただいてこっと。(2018.5撮影)
「当佐竹稲荷神社は 此の地に江戸屋敷を構えた佐竹家(秋田二十万石)が藩邸の鬼門除けのため 寛永十二年(1635)邸内の一隅に稲荷の神を勧請 建立したのに始まり 其の後天和二年(1682)の大火により一面焼土となり藩邸は下谷に移ったが 稲荷神社は再建され 佐竹家の家紋『扇に日の丸』を社紋とし火伏の守護神として江戸市民の信仰を受けてきた
明治にいたり神社制度が確立されるや 無格社となり 其の祭祀は神田明神の神職が兼務し 其の維持は地元有志に委ねられた 時移り大正十二年の関東大震災に惜しくも灰燼に帰し 社有地は区画整理のため現在地に移され社殿の再建をみたが 昭和二十年の空襲により再び消失の厄にあった 戦後の混乱期をへて復興の曙光をみる 昭和二十六年に仮宮が造営され 昭和二十七年には宗教法人により登記され 昭和三十年地元有志の奉賛により 総檜一間社霊屋造りの本殿が竣工し今日に至った」境内案内板より
《旭町》
「旭町は、寛永年間(1624〜1644)の江戸図によると、能楽師幸若太夫と、出羽秋田藩の藩主佐竹義宣の屋敷地でした。
その後、天和二年(1682)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町二〜四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。明治二年(1869)、これらの地域は『旭町』と改名されました。
旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治五年(1189)、源頼朝は藤原泰衡を討伐するため奥州平泉へ向かいました。そのとき常陸国佐竹郷の武士だった佐竹秀義は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の『五本骨の扇に月』の紋の由来になったといわれています。
明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて『旭』という町名が発想されたようです。
調和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。
旭町町会」町会案内板より
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