愛宕神社
池には鯉がうようよいて、ボートが何故か浮いてたりして、猫たちも寝そべってて…やっぱり、なんかのんびり。
社務所の脇の屋根の下のベンチで、ぼけぇ〜っと池のきらきら眺めてリラックス。
それにしても、噂の“男坂”は、思った以上に怖かった… 高所恐怖症には、辛い高さ。急だし…
恐怖に耐えながら一心不乱に登り切り、一息ついてから恐る恐る下を覗き見たら、クラっとなった。
というわけで、下るときは、迂回路になってる“女坂”からのんびりと。(2013.9撮影)
「当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏“勝軍地蔵菩薩”(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現在のご社殿は昭和33年再建されました。寛永11年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が駿馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ“出世の石段”の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う“桜田門外の変”の集合場所でもありました。
(ご社殿内に額縁寄贈)
海抜26メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書“東都歳時記”にもその賑わいは記され現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残りをとどめています。
『伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり』」境内由緒書きより
《児盤水(小判水)》
「昔この愛宕の地に児盤水(または小判水)と云う霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平三年 平将門の乱の時、源経基と云う人がこの児盤水で水垢離をとり愛宕様に祈誓をこめ神の加護により乱を鎮めたと云うことが旧記にのっています。然し現在では昔を偲ぶものとてありません。幸い都心に聳え立つ緑の名跡愛宕山にゆかりも深い児盤水の名をとどめ昔を偲び東京の新名所として御参詣の皆様に神のお恵みと心の安らぎを得ていただければ幸いと存じます。」境内解説板より
《境内末社》
太郎坊社(猿田彦神)、福寿稲荷神社(宇迦御魂神)、弁財天社(市杵島姫命)、大黒天神祠(大国主命)、恵比寿神祠(事代主命)
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