葺城稲荷神社
西久保八幡神社の“稲荷大明神”に仮遷座中。
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神谷町駅から北へむかって、郵便局の隣…“このあたりか?”…と顔をあげたら、朱色の鳥居。かなぁ〜り急な階段。“よじのぼる”に近いくらい。
階段をのぼりきって左に社殿…と目をむけると、社殿の扉脇のベンチに人が!びくっっっ
こ、こんにちはっ…恐る恐る近寄って、遠慮がちにお参りを…しよぉとしてたら、「中に入ってお参りしていぃですよ」とにっこりするおじさま。
お礼を言って、一歩中へ…お参りしてから、ちょいときょろきょろ…
左右に人形ケースに入った随身がいて、中央に小さな祠…台の上にお供えものと小さい神狐の人形たち…台の下をのぞきこむと、祠は、富士塚のよぉな溶岩の上に乗ってるもよぉ。
おじさまに聞いてみる…「他の場所から祠を移動してきたときに、ここにもともとあった、たぶん富士塚…の上に、お祀りしたみたいだねぇ。掃除がちょっと大変なんだよねw」とのこと。
御神体のことなども、ちょこっとお話してくれたのだけど、どぉやらうろ覚えらしく…「詳しいことをまとめてある紙があるんだけど、今ちょっと切らしちゃっててね。来週には置いておくからまた来てよ」
…というわけで、翌週は無理だったのだけど、そのさらに翌週…再訪。
由緒書きの紙はあったのだけど、おじさまはいらっしゃらなかった…残念………
誰もいない境内は、固いヤシの葉が風に揺られてカサカサいう音だけがやたらに響き、振り返ると今にもはがれおちてきそぉな朽ちた覆屋の屋根が目に入り、なんとも切なく寂しい。
台座が低い(ほんとはもっと高かった?)傾いた狛犬さん…顔がえぐり取られたように欠けてしまっている狛犬さん…
また…来ます…(2014.12、2013.1撮影)
「新説・葺城稲荷神社の由来
当社は、江戸時代の元禄4年(1691)に葺手町(現・虎ノ門4丁目)の人達によって発見された稲荷神社です。
葺手町は、江戸時代の当初(1600年頃)は現在の内幸町にあり、江戸城及び家作りの屋根職人が集まった町でした。
元禄4年7月に江戸城の拡張、江戸の町の装備の為、現在のこの地に代地替えを命じられ、移り住んだときに当社が発見されたのです。
この事柄については『江戸町方書上』に記載されています。
『江戸町方書上』とは、江戸時代の文政年間(1818〜1830)に徳川幕府が各町の名主に命じて町の由来・現状などを『地理御調書上』として提出させたものをまとめたものです。
それによると当社は現在地よりやや丘の上のほうに位置し、松平右近将監の大名屋敷の外(松平大給家の預かり地)にあったそうです。
葺手町の人達が殿様にかけあい当社を町の氏神として奉ることを許され、それ以後、町内の人々が管理・運営をすることになりました。
『江戸町方書上』葺手町より
一 稲荷社 一箇所
神体幣束(しんたいへいそく)長さ 一尺七寸(57センチ)
中宮 幅 三尺四寸(1メートル)横幅 二尺七寸(90センチ)高さ 五尺四寸(1メートル80センチ)
本社 幅 九尺四寸(3メートル)高さ 八尺(2メートル60センチ)
拝殿 表田舎間活一間3尺(2メートル80センチ)奥行 二間(3メートル60センチ)高さ 八尺(2メートル60センチ)坪数 三坪
右稲荷の儀は、当時松平右近将監様お囲い外お預かり場のうち、御砂山中段当時の場所に前々より勧請仕りこれあり候由にて、元禄4年町内当所へ引き移り候砌より、火防として毎年2月初午に祭礼執行仕り候。
もっとも、城山稲荷と相唱え(後に葺城稲荷神社に改名)右本社・拝殿などの修復・新規とも町内持ちに御座候。委細の儀は書留めなども御座なく候につき相分かり申さず候。 名主 藤吉
明治5年(1872)城山町と巴町が新たに町として制定され、当社の氏子となりました。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災では災厄を免れ当社は焼失せずに残りました。
昭和3年(1928)12月現在地に鎮座。
昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲では港区一帯は壊滅的な被害を受けましたが、当社及び氏子の葺手町、城山町、巴町は焼失せずに災厄を免れました。
不幸にも隣の神谷町、愛宕町、虎ノ門近辺は焼失を免れることはできませんでした。
戦後は町の人々たちの憩いの場として、年に2回(4月と11月)大祭が行われ、お神楽や芝居などが行われていました。
(それ以外に2月の初旬には初午祭も行われていました)
現在はオフィス街のオアシスとして存在し、人々の幸せと生活の安定を願いつつ見守っています。」由来書より
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