【番外編】加賀の潜戸
翌朝一番にリベンジ。平日のせいか、貸切状態。天気良く、風さわやか…気持ちいぃ!!!!
船頭さんの歴史や神話をからめた案内のお話も楽しい。
上陸出来る『旧潜戸』では、お地蔵さんにお参りしてから、トンネルを潜り、賽の磧へ。
沢山の石が積まれ、おもちゃや靴、絵本や花が備えられていて、なんとも切な過ぎる風景…
差し込む日の光、穏やかな波の音…静かで、寂しい場所…
でも、海が荒れたとき、どうなっちゃうんだろ…ふと、心配になる。
船で入っていく『新潜戸』は、天井が高く、意外に明るい…海がエメラルドグリーンで美しく、ちょっと高くなった場所に立つ白木の鳥居もとても美しく…うっとり。
何度でも訪れたく場所…
《新潜戸(神潜戸)》
新潜戸は加賀港湾の突端に切り開いた高さ40m、長さ200mの海中の大洞窟で三方に通口があります。国幣小社佐太神社の祭神、猿田彦命の御誕生地として伝えられ、神崎内室、屏風岩、御盤岩、御釜口、的島、千畳敷等の地名が今も残っています。
出雲国風土記にも佐太神社の産れませる処なり、お産れになろうとする時、母神(棋佐加比売命)が大切にしていた弓箭が浪にさらわれて流されてしまった。母神は「私の御子が麻須羅神の御子であるならば、失せた弓箭よ出でこい」と祈念され浪のまにまに、角の弓箭が流れてきた。生まれたばかりの御子は、我が弓箭にあらずと投げ捨てられた。母神はなお一心に祈念されると、こんどは金の弓箭が流れてきた。御子は、まさしく弓箭と取り上げ「聞き窟かな」と申され金の弓に金の箭をつがえ射通した。金の弓箭で射通された東口から光が差し込み明るく輝いたため、「ああ、かかやけり」と申されたのが加加の地名のはじまりで神亀3年(726)加賀と改められたと記されている。
射通された金の箭は、東の岩戸を射抜き、勢いあまって、沖の島まで射通し穴があいた。これを的に弓のけいこをされたので、的岩と呼ばれている。
神潜戸の西口から入ると、すぐ左に白木の鳥居の建つ平らな岩があり、これを誕生岩と呼ばれ、大神のお産まれになった場所であり、棋佐加比売命をお祀りした潜戸大神宮のあった場所といわれている。
《旧潜戸(仏潜戸)》
加賀の築港岸壁から正面に大きな洞穴が見える。
これが、年端もゆかぬのに、生命絶えた幼子の魂の集まる場所といわれている苔むした、小石積みし塔が、無数にある賽の磧、旧潜戸。
二つや三つ四つ五つ、十にもたらない幼子が、西院の河原に集りて、父恋し、母恋し、恋し、恋しと泣く声はこの世の声とはこと変わり悲しさ骨身を通すなり、その幼子の所作として河原の石あつめては、それにて回向の塔を積み、「一重積んでは父のため、二重積んでは母のため」と一心不乱に石を積んでいると、どこからか鬼どもが現れ、泣きわめく亡者を尻目に、折角積んだ塔を片っ端から崩していく。するとそこへお地蔵さんが現れて、鬼どもを追い払い、幼い亡者を助けてくださった。
朝日の昇らないうちに、賽の磧に行ってみると、浜には、夜の間に来て、石を積んだといわれる、子どもの霊の足跡がある。しかも片足のみ点々と土のやわらかい所についているのが見え、朝日が昇るといつしか消えていた。また、石の塔は、時化で全部崩れても一晩中かかって泣きながら積み直すなど伝説、伝承が数多くある。
幼子を亡くした母親が、どうしても吾子のことが忘れられず和尚さんに相談に行き、お地蔵様のお姿の判木を借り千枚の紙にお姿を刷り写し、吾子のいます場所を教えて下さいと海に流した。
翌日旧潜戸にお参りしてみると、波打際に沢山のお札が打ち寄せられていた。母親は、やはり此処にきていたのかと、涙ながらにお地蔵様にご加護をお願いしたと伝承され、判木は、現在も応海寺に残されている。
伝え聞いた母親達は、お地蔵様のお札を海に流して、亡き子供の供養をしたといわれている。
…パンフレットより
運航期間:3月~11月、運行時間:9:20~16:20(1時間に一本)
受付時間:8:30~16:15、所要時間:約50分
料金:個人 大人1,200円、小人600円
※天候が悪いとき及び海上時化の場合は欠航。電話にて当日の運航状況を要確認!!
tel. 0852-85-9111
立ち寄れなかったのが残念過ぎ…次の機会には、必ず…
コメントを残す