葛飾八幡宮
線路をまたいで延びてる長い参道が気持ちいぃ。
そして、前回見られなかった玉垣内は、素敵なもの満載。
品の良い佇まいの拝殿、重厚な鐘楼、美しい神楽殿とその中の大絵馬…そして、圧倒的存在感の千本公孫樹。
さらに、赤い鳥居と太鼓橋のある厳島社、小さいけどちゃんと登れる富士塚のある浅間社、木の鳥居が素朴でブランケットを着せてもらってる神狐さんたちが微笑ましい尾上稲荷社、鳥居も狛犬も新しめな八坂社、社名碑が立派な葛飾天満宮 などの境内社も楽しぃ。
広々として、清々しい、素敵過ぎるお社。
2014年10月には、3年に一度、大神輿と氏子町会の子供神輿が練り歩くお祭り“八幡祭”が…行きますともっ
(2014.2撮影)
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たどり着いたのは、すでに日が暮れかかってる時間。
大通りに面した鳥居からしばらく“普通”な道を進み、線路を越え、やっと“境内”という雰囲気。きっと昔は、もっともっと広かったんだろな。
と、目前にぼぉっとオレンジの明かりが…ライトアップされた随神門。なかなかに幻想的。
って、すでに門に鍵がかけられ、玉垣の中には入れない。うぅん、残念。
駅からも近いし…近いうちに再訪しよぉ…(2013.9撮影)
「当宮の御創建は平安の昔(寛平年間)、宇多天皇の勅使により下総国総鎮守八幡宮として御鎮座以来歴朝の御崇敬あつく、代々の国司・郡司をはじめ国民の信仰ふかく、当国における葛飾文化・八幡信仰の中心となり、中でも平将門の献幣・源頼朝の改築・太田道灌の修覆・徳川家康の神領御朱印地五十二石の寄進等顕著な御社歴がある。
今の御社殿は大正二年に改築され、大正八年・昭和二十六年・昭和五十九年四月執行の三十三周年式年大祭に修築整備されたものである。」一の鳥居脇 由緒書きより
「寛平年間(889〜898)宇多天皇の勅願によって勧請された社で、古来、武神として崇敬された。
治承4年(1180)源頼朝は安房国から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190〜1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。
また、文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印五十二石を供御して崇敬している。
明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物である。また、山門の仁王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ随神門とよばれるようになった。この随神門は市指定文化財である。
本殿の東側にそびえる『千本公孫樹』は、天然記念物として国の指定を受け、また、寛政5年(1793)に発掘された元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。
当宮の祭礼は9月15日から6日間にわたって行われ、俗に“八幡のぼろ市”とよばれる近郷に名高い農具市がたち、一時は、関東一とまでいわれた。二月の初卯祭は湯立神事、湯立神楽、宮司舞などをもって祭事が進められる特殊神事の祭りである。
昭和54年3月 市川市教育委員会」境内由緒書きより
《御社宝》
神木千本公孫樹(国指定天然記念物)、不知八幡森(国指定保安林)、元亨の銅鐘(県指定文化財)、随神門(市指定文化財)
《千本公孫樹 一樹 昭和6年2月20日》国指定天然記念物
「多数の樹幹が寄り集まって、まるで根元から一本の大樹が伸びているように見えるところから、千本公孫樹の名で呼ばれてきました。
古くから有名で、江戸名所図会には『神前右の脇に銀杏の大樹あり神木とす。』とあり、さらに『此樹のうつろの中に小蛇栖めり、毎年八月五日祭礼の時、音楽を奏す。其時数万の小蛇枝上に顕れ出づ。衆人見てこれを奇なりとす。』とあります。
樹高22m、根廻り10.2m、目通り10.8mで、根廻りより目通りの太くなっているのも特徴の一つです。 昭和56年9月 市川市教育委員会」境内案内板より
《駒どめの石》
「源頼朝公は、治永4年(1180)以仁王より平氏追討の令旨を受けて挙兵したが、一敗地にまみれ、安房国に逃れた。
再起を図った頼朝公は千葉氏等の援軍を得て、下総国府(現在の国府台)に参会した折、当宮を参拝し戦勝と武運長久を祈願した。その折、頼朝公の馬がこの石に前脚を掛け、ひづめの跡を残したことから『駒どめの石』といわれる。」『駒どめの石』前案内板より
《神楽殿大絵馬》
「正面に掛けられている絵馬は幕末に奉納されたもので当神社の御祭神である神功皇后(むかって右から二人目)の『新羅出兵』を描いたものです。
尚、中央には皇后の臣下である武内宿禰が描かれ、また皇后の胎内には当神社の主祭神である応神天皇(八幡様)が宿られていると神話(古事記・日本書紀)は伝えています。」『神楽殿』前案内板より
以前、車でこの前を通って、普段から通りすがりの“鳥居”には敏感に反応してはいたのだけど、なんとも不思議な雰囲気に気になって気になって…って、ちょこっと調べたら、全国的に有名な場所らしく…特に“心霊スポット”扱いで…
(伝承を読んだりする限り、“心霊”という方向性ではないんじゃないか?)
葛飾八幡宮の由緒書きの「御社宝」の欄に名前が載せてあったり、公式サイトの「史跡・文化財」ページにも載せてあることから(いずれにしても、詳細には触れてない)、どうやら管理は葛飾八幡宮が行っているもよぉ。
とはいえ、森を囲む玉垣と道路に面して中央にある小さな神社『不知森神社』はお手入れされているけど、中は竹伸び放題な様子。なんせ、“禁足地”だから…お手入れのしようもないか…
ココが禁足地になったのは、江戸時代の文献に載ってるのでそれ以前のようだけど、“何故”禁足地になったのかは、謎のまま…
国指定の保安林になっているのだけど、市川市のサイトの資料に《「森林法」第25 条の規定に基づき、農林水産大臣が水源の涵養、土砂の流出の防備等11 項目の目的を達成するために必要である場合は、保安林として指定することができ、八幡2丁目に0.1ha(八幡不知森)が指定されています。》とある以外、指定された時期や経緯など詳細情報は何もみつけられず…
きっとこれからもずっと“不可思議な森”で居続けるんだろな…
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