不知森神社[八幡の藪知らず]
やっとまともに訪れられたのが半年前。辿り着いたときにはすっかり日が暮れていて…駅のすぐそばで人通りも多いのだけど、鳥居を潜ったとたん、人の気配が消えた…静か…めちゃ、静か…
正直ちょっと怖かったのだけど、道を渡った改めて見た情景は、息を飲む美しさだった。
再訪は、真っ昼間。明るい中で見る“八幡の薮知らず”は、切なくなるほど小さい。
でも、生い茂る竹は青々として太く高く…頭上でさわさわと気持ちのいぃ音をたててる。
闇は怖く、お日様の光は温かくありがたい…ココは、そんな生き物としての“あたりまえ”を、なんだかひしひし感じられた気持ちのいぃ空間だった。
(2013.9、2014.2撮影)
《不知八幡森(通称 八幡の薮知らず)》国指定保安林
「江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では『薮知らず』のことを載せています。そして『この薮余り大きからず。高からず。然れども鬱蒼としてその中見え透かず。』とか、『薮の間口漸く十間(約18m)ばかり、奥行きも十間に過ぎまじ、中凹みの竹薮にして、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などさまざまの雑樹生じ……』などと書かれたりしていますが、一様にこの薮知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、『諸国に聞こえて名高き所なり』と言われて全国的に知られていました。
入ってはいけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である
・日本武尊が陣所とされた跡である
・貴人の古墳の跡である
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある
・平将門の家臣6人が、この地で泥人形になった
…と、いろいろ言われてきました。
中でも万治年間(1658〜61)、水戸黄門(徳川光圀)が薮に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
『薮知らず』に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、『薮知らず』が、『放生池』の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に『放生会』があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。薮知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には『入ってはならぬ』ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
『不知八幡森』の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。
平成16年3月 市川市教育委員会」案内看板より
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