幸徳稲荷神社
土の広い境内があって大きな御神木があるようなお社も好きだけど、こんな風に都心の一角にその場所に合った佇まいでお祀りされてるお社も大好き。
それぞれのお社を守り続ける人々の“心”が好きなのかも…
それにしても…
こちらの賽銭箱には注意書きがあって…賽銭を持ち出していってしまう人がいるために、本来の賽銭箱の使用をやめて、郵便ポストみたいな形の鍵付きボックスにお入れください と…
今まで訪れた神社でも、異様に鍵だらけのところや、いたずらに色を付けられていた狛犬さんや、そんなお話をしてくださった氏子の方に出会ったところもあったし…
そぉいうことをしでかす心持ちの人がいるって、なんとも悲しいことだわ。(2013.7撮影)
「当稲荷神社は旧幕時代、山城の国淀の城主(現京都府伏見区淀町・十万二千石)稲葉丹後之守(三代将軍家光の乳人 春日局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し、代々五穀豊穣武運長久を祈願された由緒ある神社と伝えられています。明治維新後は、この地に商家町民移り住み、町の名も小川町一番地となったことから、町内の守護神として、伏見稲荷大社より霊を勧進し、近隣氏子有志によって新しくお社を覆う社殿を建立。現在のお社も江戸時代徳川家斉公の時代のものと推測される貴重な建造物です。このお社には、江戸時代から屋根を掛けられ、雨風を防いでいた模様で、大正時代の絵はがきや関東大震災後の写真には、お社を覆う社殿が写っています。大震災の折、倒壊した石の鳥居左柱には文化四年丁卯年二月初午、右柱には慶応三卯年二月再建の文字、またこの混乱の中、行方の判らなくなった水舎の石盟水盤(口手を清める水盤)には元禄十四年奉納と刻まれていたという記録も残っています。
昭和二十一年、敗戦により大きな町会組織であった小川町北部町会が解散され、現在の四つの町会(小川町北部一丁目町会、北部二丁目町会、北部三丁目町会、三丁目西町会)に分割された時、古老総代は神社の廃絶をおしみ、幸徳稲荷神社奉信会を結成、さらに昭和四十三年には「幸徳会館」を建設し、二階に社を移して宗教法人化し、代表役員、責任役員を各町会から選出し、合議により維持管理、町会相互の連絡親睦と一層崇敬を深めつつ、現在に至って居ります。
毎年二月三日に神田神社より神職を招き、節分祭を挙行、また神田神社の大祭に合わせて、隔年五月に修祓式と神輿の町内巡幸および神田神社への宮入参拝を行い、守護神様への感謝の気持ちを表す大祭を催行しています。」境内由緒書き(書面)より
ちなみに、このお堂の前の道は“観音坂”。この坂の解説板には、「「この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には“新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。この坂の上観音院と称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし。新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし”とかかれています。しかし、延宝(1673〜80)、元禄元年(1688)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。」とある。
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その後、こちらの“観音様”に関して記述のある書籍発見…
『東京街角 お地蔵・稲荷・石塔めぐり ー散策地図付きー』(佐藤テツ 著/廣済堂出版 2013/12/3発行)
さらに、そちらの中で参照したのが『観音坂と観音様の由来』(1959/3発行の印刷物・聖観世音堂新築に際して発行された町会報 臨時増刊号かも?)で、さらにさらに、その印刷物は『千代田区の物語』(小丸俊雄 著/千代田週報社 1958発行)から抜粋したとのこと。
それによると…
坂の由来は解説板にもある「坂の上に観音院(というお寺)があったから」以外にも、「坂の上に狩野家(幕府御用絵師)の屋敷があり、その邸内に観音様が祀られていた」という説もあるとのこと。
いずれにしても、安政の大地震で焼失してしまうまで、このあたりに十一面観音が祀られていたということらしい。
それ以後、忘れさられていたものの、昭和3年に一帯の区画整理の際、地中から巨大な丸石が出てきて、処分しようとしたものの、近所の老女が「昔、観音様がこの石の上にあり、目の悪い人が石にお茶をかけて拝むと治った」と話したことからそのままとなり、地主であった関根旅館が金銅の十一面観音を勧請し、新たなお堂を建てて祀り、お堂の下にその巨石を配置した…その石は、今もみることができる。
ちなみに、観音様は何度も盗まれたようで、勧請された当時は「金銅」と書かれていたものの、『観音坂と観音様の由来』には「木造」とあり、現在は「金属製」だそうな。
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