弥勒八幡神社[八幡宮]
まだ“佐倉の秋祭り”の時にしか訪れたことがなく、大通りからほんのちょっとそれただけなのに、喧噪遠く、やけにひっそりとしたイメージ。
拝殿の奥からの光がもれ、お神輿のシルエットが浮かび上がっている様は、ちょっと幻想的。
それにしても…江戸、明治と二度も火災に合うなんて………二度とそんなことにならないように願うばかりです…(2013.10撮影)
拝殿の奥からの光がもれ、お神輿のシルエットが浮かび上がっている様は、ちょっと幻想的。
それにしても…江戸、明治と二度も火災に合うなんて………二度とそんなことにならないように願うばかりです…(2013.10撮影)
《御祭神》
誉田別命(応神天皇)
《祭礼》
9月15日頃の日曜、10月第二週の金・土・日(佐倉の秋祭り)→佐倉の秋祭り
【由緒】
「当初社殿は、松林寺周囲に鎮座してたが、江戸時代末期に火災にあい、現在の地に再建された。その後、明治29年12月1日、再び火災により消失し、現社殿はその後の再建である。御祭神は、誉田別命(応神天皇)である。応神天皇在位の時期は、中国。朝鮮より文字が伝わり、縫工、織工などが来日し、それらの技術が伝えられた時代であり、画期的な時代であったことなどから「勉学の神」として、あるいは、新しい事を行う時「創業の神」として尊崇されていた。また平安、鎌倉時代には、源氏の氏神として武神、軍神として崇敬されていたことは、よく知られるところである。」境内由緒書きより
山車人形『八幡太郎義家』彌勒町町内会 所蔵
「八幡太郎義家こと源義家(1039〜1106)は清和源氏の武将“源頼義”の嫡男。後の曾孫にあたる源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、義家が亡くなって、およそ85年後のことである。
木札に“奥州奈古曽關之圖”と有り、陸奥守・鎮守府将軍として奥州平定に下向する際、遠望する様を表現してる。
人形作人札には『都梁齋 仲秀英作』、人形頭箱には明治七戌八月と『光信』の落款印がある。また、頭の収納箱の裏には『明治七甲戌八月・第三大區五小區・市谷田町壱丁目』とあることから、以前は市谷亀岡八幡宮の祭禮で使用されていたと思われる。」“佐倉の山車人形”パンフレットより抜粋
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