水稲荷神社
それにしても、富士塚や古墳までもこぞって移設しちゃうって、すごいパワーっ ちと感動。(2012.5、2013.10撮影)
「天慶四年(941)藤原秀郷(俵藤太)によって、現社地の南方300mの富塚の上に稲荷神が勧請され、冨塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれていた。 文亀元年(1501)川越管領上杉治部少輔朝良朝臣の夢に老翁が現れ「我此所を守護し、民をして太平の化を蒙らしめ、所を繁栄ならしめんとす、汝必ず民を虐ぐる事勿れ」と告げた。朝臣が老翁の名を問うと「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよにけり」と答えたという。 目覚めて見ると、庭に一匹の老狐が居り、江戸の方に飛び去った。 朝臣はただちに家臣を江戸へやり、戸塚の辺りを探させたところ、戸塚音信山に稲荷の古社があったことから、これを再興し、戸塚一円を社領にした。 元禄十五年(1702)四月、神主の夢想により御神木・大椋の下に霊水が湧き出し、眼病治療の霊験があった。 また、その時の神託に「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とあり水稲荷と称するようになり、消防関係者や水商売関係者の崇敬が篤いという。 天明八年(1788)京都の大火で、皇居が炎上した際、しきりに防火につとめる老翁があり、名を問うと「江戸の水稲荷」と答え姿を消したという。この時の恩賞により、関東稲荷惣領職を賜わったと伝えている。 昭和の大戦により社殿が焼失。御神木の大椋も焼け水稲荷の由来となった霊水も止まってしまった。 その後、早稲田大学から甘泉園に社地が提供されさらに社殿の奉納を条件に旧社地を譲り受けたいとの申し出があり徳川家御三卿の一つ・清水徳川家の旧跡である現在地に遷座した。」社伝より
《耳欠け神狐》
「身体の痛い所と神狐と交互になでると痛みがやわらぐといわれます」境内案内板より
尾がふっくら丸く、前足から着地したような姿が愛らしい…
この地は、江戸中期の安永3年(1774)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷がおかれたところである、明治30年ごろ、相馬家の所有となったが、昭和13年早稲田大学に移譲された。
戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えて、昭和44年、区へ移管した。
庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。
池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ秋の紅葉が水面に写り、美事な景観を創り出している。」園内案内板より
開園:7〜19時(3〜10月)、7〜17時(11〜2月)
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