元三島神社
日が暮れるときらびやかで艶めいたネオンが輝くであろぉ鶯谷駅前界隈のはずれ、線路脇の一角(二階?)に鎮座。
駅側から回り込んだ路地からシックな色合いの社殿を仰ぎみえて、すでにうっとり。
その道から、折り返すように境内…そして、参道へ。
左手に手水舎、右手に神楽殿、正面には石灯籠に挟まれるようにお賽銭箱があり、その奥に階段が…
夜になると、階段危ないし…暗くて…こちらでお詣りが出来るってことかな?
階段に覆いかぶさるように枝をのばすその木漏れ日のなか、登った先には、路地から仰ぎみたシックな佇まいの社殿。
千木のキリッとした鋭角さと屋根のふっくらとした厚みのある感じが、好き…
社殿の脇に回り込めないのが残念。
駅近だし、ぜひまた寄らせていただきましょ。(2016.9撮影)
駅側から回り込んだ路地からシックな色合いの社殿を仰ぎみえて、すでにうっとり。
その道から、折り返すように境内…そして、参道へ。
左手に手水舎、右手に神楽殿、正面には石灯籠に挟まれるようにお賽銭箱があり、その奥に階段が…
夜になると、階段危ないし…暗くて…こちらでお詣りが出来るってことかな?
階段に覆いかぶさるように枝をのばすその木漏れ日のなか、登った先には、路地から仰ぎみたシックな佇まいの社殿。
千木のキリッとした鋭角さと屋根のふっくらとした厚みのある感じが、好き…
社殿の脇に回り込めないのが残念。
駅近だし、ぜひまた寄らせていただきましょ。(2016.9撮影)
《御祭神》
大山祇命・伊佐那岐命、和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命
《祭礼》
5月第2土・日曜
【由緒】
「当社はご祭神に大山祇命・伊佐那岐命を頂き和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命を配祀申すものである。
例大祭はご祭神勧請の時にちなみ5月14日15日とする。(但し現在交通事情により5月第2土曜、日曜とする)
元三島神社はそもそも第62代円融天皇の御代に日本総鎮守の称号を賜り、明治においては國幣大社に列せられ、四国唯一の大社、大山祇神社をご本社に頂くものである。
当社の由来はご本社大山祇神社のご分霊によるものであり、その源を弘安4年の役に発する。
すなわち弘安4年、勇将河野通有、三島水軍を率いて大山祇神社に必勝の祈を捧げて神恩加護を仰ぎ武功赫々として帰国したところ夢の中に神のお告げを得て大山祇明神武蔵国勧請の発願を時に上野山中にあった河野氏の館にご分霊を鎮座申したことに始まったと伝わる。
後、室町の代を通じ社運の隆盛いよいよ募り江戸の代に入っては徳川家より社領拝領預かるが慶安3年(1650)三代将軍家光の時 金杉村に移転、ついで宝永6年(1709)社地幕府御用地となるに及び代替地に浅草小揚町を賜って再び遷座の運びとなる。
しかるに、代々金杉村に住む氏子住民から氏神様の地元遊離は誠に不都合と赤誠こもる訴えが起こり金杉根岸の村民相寄り協議の末、金杉根岸の地の熊野神社と合祀を図りこれを元三島神社と称し今日に至る。
旧社殿は明治4年の再建であるが昭和20年、戦火で焼失以後、昭和22年造営するも老朽著しく、よって昭和51年4月新たに造営落成したものである。」境内案内板より
根岸1-7−11 » Google MAP
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