三島神社
「伊予国一宮大山祇神社からご分霊して上野山中にあった河野氏の館に勧請し、その後江戸幕府によって2度遷座となるが、金杉村の氏子住民から“氏神様が遠いのは困る!”との声に、勧請された」という歴史は、元三島神社と一緒らしく…“元”というから旧地なのかと思ったけど、そぉでは ない???
ちなみに、同じ台東区内…この2社よりちょっと離れるけど…田原町駅近くにも『三島神社』が…そちらは、“本社 三島神社”とのことで、歴史はやはり同じっぽい。
もしかしたら、もっとあちこちにあったのかな…とりあえず、“本社”にも訪れたいわ…
天災や戦災、土地開発やらなんやらがあっても、何らかの形で残る、残そうとする…日本人にとっての神社の意義に、思いを馳せてみたくなるそんなお話。
駅からの大通り、“金杉通り”に面して、一際目立つ御神木と石造りの鳥居。
って、改めて地図をつらつら眺めてみると、
このあたり、“金杉”の名がちょこちょこあって…金杉村の中心部だった?
ググってみたら…
『金杉上町、同下町、金杉丁
二丁目』(台東区サイト:台東区の旧町名について)、発見。
なるほどぉ…
どっしりとした石鳥居…
こぶりな社殿は、彫刻なんかの飾りはないけど、木が整然と組まれた垂木が美しく、うっすら緑がかった厚みある屋根に気品感じる。
地主神の“火除稲荷社”の細身な神狐はちょいとリアルでかっこよく、
吉原へ渡る橋跡や雷を閉じ込めたという井戸も、興味深い…
(2016.9撮影)
「当神社は凡六百七十年前弘安の役勇将河野通有の発願により其の一族が伊予国越智郡に鎮座する日本総鎮守大山積命を武蔵国豊島郡に勧請して金杉村上野山内の自邸に奉斎し此の地方一帯の守護神と定め社殿を建立したのに始まると謂ふ。其の後歳月を経て此の地方が段々と開けて土地に人々も此の神の御神徳を尊び現に氏神産土神として崇敬し弥高き霊験を拝して居ります。」境内案内板より
《三島様の石橋跡》
「この横の道路は往昔より吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃、三島神社に参詣するには石橋を渡ったのである。街が発展して土手がなくなった明治の末期よりその石橋を境内に敷き人々から親しまれた『三島様の石橋』を永く保存するものであります
(注)樋口一葉の『たけくらべ』に三島様の角をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく…はこの道路で土手と小川が有った頃」
《三島神社の雷井戸》
「昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たまたま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷をこの井戸にとじ込めた処雷は『井戸から出して呉れ』と哀願するので『二度と此地に落ちない』と約束のもとに許してやったと云う
爾来此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不詳なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが現在も満満と水をたたえて雷除の井戸として信仰されている」
《献木・楠》
「当神社の御本社伊予国大三島に鎮座する大山祇神社は楠群の原生林にあり 境内には樹齢2500年の大楠が繁り 御神木であります 故に常緑樹楠を現地より侵植し氏子各位の満栄をお祈り致します」
《火除稲荷社》
祭神:保食命
例大祭:3月6日(お縁日 毎月6日)
「往昔奥州街道に沿う町並として発達せる武蔵国豊島郡金杉村のこの地に御先稲荷を勧請したるあり後 正保3年東叡山寛永寺と定められて以来 火除稲荷と称し奉り三島神社の地主神であります。
家内安全、商売繁昌、火災守護の大神として町人から崇敬されています。」
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