芝大神宮
階段を登りきり狛犬さんの間を抜け、意外にこじんまりとした境内…すぐ正面に拝殿があって、ついついそのまま進みそう…手水舎は?
左側の狛犬さんを回り込んだ先…おみくじ&絵馬掛け、樹々に囲まれた場所にすっきりとした手水舎発見…緑の屋根と白木の柱が美しい。
その奥、社殿の横から庭のような場所が見えて…門が開いているので、ちょいとお邪魔してみると…本殿の屋根、見えた!
千木と鰹木が重なっているアノ感じが、すごく好き…黒に金が映えて素敵…しばし、うっとり眺める。
階段を降りて左右…社号標に石灯籠…生姜塚(その昔、ここいら一帯、生姜畑だったそぉな)は黒地に金でちょいと派手…
そんな中で、ちょいと気になったのは“貯金塚”…
『根気根気 何事も根気』…ですね。
さらに、横の解説板にこの塚の由来が書いてあって、その最後の言葉…
『倉は焼けても貯金は焼けぬ』…なるほど………
貯金…しよっかな…………(2014.5撮影)
《芝大神宮の文化財》
「社伝によれば平安時代の中頃(寛弘2年・1005)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。
毎年9月中旬には“だらだら祭”とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深い。
所蔵する文化財として、絵画では江戸末期の建部巣兆の箱根詣図(紙本着色)などがある。古文書では建武4年(1337)正月七日の足利直義御教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正16年(1588)7月24日の吉良氏朱印状がある。
昭和53年1月(平成25年11月建替) 港区教育委員会」境内案内板より
《芝大神宮の力石》(港区指定文化財・有形民俗文化財)
「力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮の力石は「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶應三年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。港区内には、全部で十四点の力石が確認されているが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。
平成7年9月26日 東京都港区教育委員会」境内案内板より
《貯金と災厄(昭和廿二年正月不動会建之)》
「災厄は忘れた頃来るという。関東の大震災も亦然り。當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた。然るに其中にあってひとり預金の金額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。其名を不動貯金銀行という。即ち牧野元次郎翁が頭取であった。其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄桿片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。
倉は焼けても貯金は焼けぬ」境内案内板より
《御手水舎について》
「此の御手水舎は崇敬の念篤が氏子皆様の御芳志により今年の例大祭を期し九月十一日に落成致しました茲に謹で御礼申し上げます
様式は四本柱の外側に二本の柱が棟を支えている(之を棟持ち柱と云う)神明造りを形どったもので全国でも稀に見る珍しいものです
用材 木曽桧
水鉢 浮金黒御影本磨
屋根 銅板葺
昭和四十一年九月吉日 芝大神宮」手水舎横案内板より
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