【番外編】将門塚
ちょっと出遅れてしまって、渡御が終わった直後で、御神輿は片付けられていくのを見送った程度で残念だったのだけど…
塚のある広場は、ビルの陰で暗いのかと勝手に想像していたのだけど、背の高い樹々がさわさわと揺れる様が清々しく、とても明るく気持ちいぃ場所だった。
塚と植木を挟んだ広場の一角には、神田明神の巫女さんがお札などを授与する出張所があったりして、のんびりいぃ風情。
塚に参拝する人の列はそんなに大人数ではなかったのだけど、皆やたらに長い…すごく熱心なその姿に、なぜかえらく感動しちった…(2014.5撮影)
「平将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治二年(1307)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和45年(1970)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
平成24年3月 建設 東京都教育委員会」場内解説板より
《将門塚》(東京都指定文化財 都旧跡)
「神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。
江戸総鎮守 神田明神」場内案内板より
《将門首塚の由来》東京都文化財
「今を去ること1050有余年の昔、桓武天皇5代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられてが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍らの神田明神にその霊を合わせ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我が世の春を謳歌していたが、遠い板東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。
史蹟 将門塚保存会」場内由来書きより
《酒井家上屋敷跡》
「江戸時代の寛文年間 この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり 歌舞伎の『先代萩』で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。」場内案内板より
コメントを残す