矢先稲荷神社
境内では、一部工事中(社務所らしぃ?)。
拝殿はベージュと白の明るい外観…お参りしてたら、
「どうぞ、お履物をおぬぎになり、神殿内の福禄寿、天井絵をご覧下さい。」
という文字が目にとまる。
拝殿のガラス扉の貼り紙には、「注意 靴下・足袋・ストッキング等お履きで無い(素足)方の入場はご遠慮願います。」
…これも、だいじょぶ!
結構あちこち、拝殿に入らせてもらえる神社はあるようなのでけど、そんな機会には実際なかなか出会えず…こんな風に書いておいていただけるとひじょうにありがたい。
というわけで、さっそく…
薄暗いかと思ったけど、目が慣れてくると外からのほんのりとした光と鴨居から上へむけての間接照明のやわらかい光で、天井絵が浮かび上がってきた…
馬、馬、馬………馬だらけ!いろんな馬のいろんな人とのいろんな場面が描かれてる…
“神代より昭和に至る馬乗絵”なんだそうな。
一枚一枚物語性がある感じで、じっくり観たいところだけど、ちと首がしんどい…
とにかく圧巻。
さらに、拝殿の中から境内を眺めるって、すごく不思議な気分…ちょっとどきどき。(2018.2撮影)
「当社は寛永19年(1642)11月23日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのに始まると伝えられています。
浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称されました。
御神宝:
神殿の天井絵・馬乗絵百体
(神武天皇から昭和に至るまでの馬乗りの絵百体/海老根駿堂画伯作)
どうぞ、お履物をおぬぎになり、神殿内の福禄寿、天井絵をご覧下さい。」拝殿前案内板より
《天井絵馬》
「作成年…昭和39年(昭和35年 作画開始)
作者…海老根駿堂(明治38〜平成元年)
寛永19年(1642)当地に三十三間堂が建立され、京都三十三間堂に倣い、弓術の錬成である『通し矢』が盛んに行われておりました。(当地三十三間堂は1698年の大火に依り焼失。その後深川にて再建)
矢場の的先に堂の守護として、稲荷大明神が祀られた事から『矢先』稲荷神社と命名されたと言われております。
昭和35年、現社殿が完成した折り、弓術と縁の深い馬術の絵馬を社殿の格天井に揮毛したいとの氏子崇敬者達の強い思いから、財界の権威 海老根駿堂先生の協力を得て、神代より昭和に至る馬乗絵を奉納する事になりました。
海老根駿堂先生に依る作画は約五年の歳月に亘り、完成された百万の馬乗絵は社殿に一層の荘厳さと威容を整えていただきました。
[作者の言葉]
かねて念願の日本馬乗史百図もお蔭をもちまして、五年の年月を閲し、無事完成の運びに至りました。これ偏に関係各位のご支援ご鞭撻の賜と厚く御礼申し上げます。」
《浅草三十三間堂跡》
「『文政町方書上』によると、寛永19年(1642)11月23日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す『通矢』の数を競った。
元禄11年(1698)9月6日、世に『勅額火事』と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同14年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ『矢先』の名が付されたという。
平成七年三月 台東区教育委員会」境内案内板より
《浅草、自社景跡三十三間堂絵図》
「寛永19年(1642)『弓師備後』『上野寛永寺天海僧正』の発企、武術奨励を願う三代将軍『家光公』の命により、浅草三十三間堂は創建されました。同じく鎮守社『矢先稲荷神社』が建立され375年の崇敬を集めています。
明暦大火(明暦3年、1657)後、『火除地』に設定された当地域に寺院が建て始め、新堀川が開削された寛文11年(1671)『浅草三十三間堂』を中心とする長閑な時代を『田中辰斎絵師』が描いています。
南北百二十メートル丹碧の大伽藍で行われる一昼夜の『通し矢』は、江戸名所として一世を風靡した華やかな時代でした。
残念なことに元禄11年(1698)『勅額火事』と呼ばれる大火で焼失しました。存続すれば松葉町の様相も違ったものであったと思われます。」境内案内板より
《旧 松葉町》
「本町は明治2年(1869)、それまであった浅留町と浅草坂本町に付近の門前町がひとつになってできた。町名は、新寺町の名主高松喜内の『松』と坂本町名主二葉伝次郎の『葉』をとって名付けられた。
寛永19年(1642)、この地域に『通し矢』で有名な京都東山の三十三間堂にならって浅草三十三間堂が建てられた。元禄11年(1698)に勅額火事といわれる大火に見舞われお堂は焼失したが、深川で再建されたことから跡地に下谷あたりの寺院が移転して寺院街を形成した。そしてこれらの寺院に門前町が開かれるに伴って、新寺町と呼ばれるようになった。麻留町と浅草坂本町ができたのもこの頃である。
矢先稲荷神社は、三十三間堂の鎮守として稲荷神を祭るのに始まった。そして、社名は弓術練習のために造られた三十三間堂稽古場先に奉祭されたことから、このように呼ばれた。」旧町名由来案内より
今から約二百年前の文化年間 商人として財を成した合羽屋喜八は このあたりの水はけが悪く 僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀していることを見かね 私財を投げ出し 治水のための掘割工事を始めた ところが工事は困難を極めなかなか捗らない その様を見ていた 隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ 夜な夜な現れては人知れず工事を進め さしもの難工事もついに完成した
そして その河童を見た人は なぜかそれから運が開け 商売が繁盛したという
この故事に鑑み 合羽橋道具街の誕生九十年を迎えるにあたり ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を記念し 台東区の協力を戴き この地に かっぱ河太郎像 を建立する
平成十五年十月吉日 東京合羽橋商店街振興組合」
《かっぱ橋の由来》
「合羽橋の由来には二つの説がある。
その一つは、今から160年ほど前の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起こしていた。そので、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事はことのほか難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、堀り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで『合羽橋』としたというものである。
もう一つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が、内職に作った雨合羽を近くの橋で乾かしたことで、『合羽橋』と呼ばれるようになったというものである。」
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