赤城神社
そんな魅力の一つ…やっとやっとの赤城神社。
近代的で前衛的…でもちゃんと伝統的な雰囲気も残ってる。
社殿の前も階段も、広々としているので、みな思い思いのペースで散策。
白い狛犬、ガラス張りの拝殿、一際大きな御神木…
あかぎカフェからぼんやり眺める境内…
そこには、ゆったりとした優しい時間が流れてた。
ここからのお散歩も、これからの1年も、なんだか明るくなりそうだよ。(2018.1撮影)
「後伏見帝の正安2年9月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十餘年を経て寛正元年太田道灌持資が牛込台へ遷座。其後大胡宮内少輔重行が神威を尊び今の地に、始めて“赤城大明神”と称えるようになった。かくて天和3年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。」あかぎカフェのショップカードより
《赤城神社の狛犬》
「江戸時代、加賀白山犬とよばれて流行りましたが残っている物はわずかです。
型や表情はシンプルでスフィンクスに似ていますが胸を張り力がみなぎっています。
高天原からかみさまのお供をして来たような表情で澄まして座っていますが前肢は力強く全体に緊張感がみなぎっています。」境内案内板より
《螢雪天神 本宮》
「ご祭神 菅原道真公
古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。
ご祭神は『学問の神様』菅原道真公を祀ります。
この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治9年3月當境内にご遷座。
その後、戦災により焼失したものを、平成17年10月現在横寺町にある旺文社の御寄進により『螢雪天神』として復興しました。
社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。
『螢雪』とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。全国の受験生の皆さん、螢雪天神はそんな皆さんを応援しています。」境内案内板より
《境内社》
赤城出世稲荷神社
「ご祭神 宇迦御霊命、保食命
創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷りする以前(公治元年1555年)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。
また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。」
八耳神社
「ご祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(別称…聖徳太子)
戦火で焼失した昔の『太子堂』です。この八耳様は『あらゆる事を聞き分ける天の耳』を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は『八耳様・八耳様・八耳様』と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。
合殿に大国主大神、丹生大神、を祀ります。」
葵神社
「ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公
牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年 神仏混合を廃止された際に當境内へ鎮座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への信仰の対象でしたが、現在は神楽坂の『東照宮』として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。」
境内案内板より
《観音菩薩像》
「赤城神社の北に位置した宝蔵院(今の西五軒町にあたり、現在は廃寺となっている)より移された。
舟形光背には『慶長十八丑年五月十六日』(1613)と刻まれている。
ふっくらとしたお顔立ちで全体におおらかな雰囲気の菩薩像である。」境内案内板より
《俳人巻阿の碑》
「巻阿は江戸期の俳人であり、幕府の家士でもあった人物。
『梅か香や水は東より行くちがひ』
『遠眼鏡には家もありかんこ鳥』
『名月や何くらからぬ一とつ家』
『あるうちはあるにませて落葉哉』
の四句が刻まれている。」境内案内板より
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