【番外編】善國寺(神楽坂の毘沙門さま)
良い天気だし、正月気分満々、のんびり陽気な雰囲気漂ってる。
散策メインストリートである神楽坂通りの上側1/3辺り…どぉ〜んと朱い迫力ある門構えは、かなり目立つ…思わず吸い込まれる…
正面、本堂の入り口前左右には、厳しいお姿の石虎さん!
って、表情はなんとなくのどか…でも、爪はこわいぞっ
…などと、まわりを何度もうろうろ…
境内左手には、“浄行菩薩”像。お水をかけて、自分の悪い部分と同じ場所を備え付けの布でゴシゴシと洗い清めると良いらしぃ。
さっそく…と、脇の水瓶から柄杓で水を汲み…うわっ冷たっ
これをかけるなんて…と、なんかめちゃ申し訳ない…
というわけで、
ちょろっとだけかけ、布で磨くというより拭くという感じに…
さらにその奥…
覆屋の中、小さなお社。“出世稲荷”と書かれた幟もどこか控えめにはためいてる…ように見える…
ひっそり…かと思ってたら、
お隣の菩薩さまよりも、こちらにお参りする方多し…
詳しい由来はわからないけど、もしやこちらのご利益は有名なのか?
出世稲荷ってことは、出世?
何が“出世”なのか、そもそもよくわからず…なので、
今日は快晴でありがとうございます!…と、またわけわかなん“ご挨拶”をしたのでした…(2018.1撮影)
《毘沙門天像》新宿区指定有形文化財 彫刻(昭和60年7月5日)
「“神楽坂の毘沙門さま”として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
本彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。
善國寺は、文禄四年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。
平成21年12月 新宿区教育委員会」境内案内板より
《善國寺の石虎》新宿区指定有形民俗文化財(平成21年11月6日)
「安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82センチ、吽形(左)は85センチで、台石・基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。
嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、“岩戸町一丁目”“藁店”“神楽坂”“肴町”などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。
善國寺は毘沙門天信仰から“虎”を重視し、石虎の造立も寄進者の毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。
石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。
なお、阿形の台石正面にある“不”に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月 新宿区教育委員会」境内案内板より
《浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)》
「浄行菩薩とは水が垢や穢れを除いて一切を洗い清めるが如く我々の煩悩の汚泥を除いて身心の病を除き寿命を延ばし
衆生の願いを満たす徳をもって出現された菩薩さまです
どうぞお題目を唱えながら備え付けの布でご自身の悪い部分を洗ってください
必ずご利益を頂戴することができます」菩薩像脇案内板より
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