隅田川神社
東向島白鬚神社から、墨堤通りを北へ…500mほど行くと、西側にずらっと団地?
…ってこれは、白鬚東アパートといって18棟・全長1km以上にも及ぶ団地群だそうで、とにかくそのずらりとした様子は圧巻の一言。
敷地内にはお店や医院なんかもあって、ちょっとした街…なんか懐かしい雰囲気。
隅田川神社はその奥、隅田川に沿ってのびる首都高6号向島線のすぐ内側なのだけど、その一の鳥居は、団地群のちょうど真ん中あたり…墨堤通りに面してどどんっと建ってる。
そこから続く参道は、6号棟と7号棟の間をくぐって、東白鬚公園の野球場とテニスコートの間を通り、纏のモニュメントのある広場の脇を抜け、隅田川神社境内へとほぼ一直線に続いてる。
隅田川神社の境内は、“庭”っぽい雰囲気に整備されていて明るい。
すぐ後ろに首都高が走っているけど、意外にも静か。
こちらの特徴の一つである狛犬ならぬ“狛亀”は、耳と牙があってガメラっぽく、なんともお茶目なのだけど、結構古そう?
さらに、首都高側に建っている鳥居の手前の小社の中にも“亀”らしき石像…こちらはもっと古そう?
それにしても、なんで亀?水神社だから?
石碑もごろごろ、猫もごろごろ…のどかで気持ちのいぃお社。(2018.1撮影)
…ってこれは、白鬚東アパートといって18棟・全長1km以上にも及ぶ団地群だそうで、とにかくそのずらりとした様子は圧巻の一言。
敷地内にはお店や医院なんかもあって、ちょっとした街…なんか懐かしい雰囲気。
隅田川神社はその奥、隅田川に沿ってのびる首都高6号向島線のすぐ内側なのだけど、その一の鳥居は、団地群のちょうど真ん中あたり…墨堤通りに面してどどんっと建ってる。
そこから続く参道は、6号棟と7号棟の間をくぐって、東白鬚公園の野球場とテニスコートの間を通り、纏のモニュメントのある広場の脇を抜け、隅田川神社境内へとほぼ一直線に続いてる。
隅田川神社の境内は、“庭”っぽい雰囲気に整備されていて明るい。
すぐ後ろに首都高が走っているけど、意外にも静か。
こちらの特徴の一つである狛犬ならぬ“狛亀”は、耳と牙があってガメラっぽく、なんともお茶目なのだけど、結構古そう?
さらに、首都高側に建っている鳥居の手前の小社の中にも“亀”らしき石像…こちらはもっと古そう?
それにしても、なんで亀?水神社だから?
石碑もごろごろ、猫もごろごろ…のどかで気持ちのいぃお社。(2018.1撮影)
《御祭神》
速秋津日子神・速秋津比賣神・鳥之石楠船神・大楫木戸姫神
《祭礼》
6月15日(…に近い土・日)
【由緒】
《水神の森跡》
「荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつては鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。
昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。
水神の森は『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。」境内案内板より
堤通2-17-1 » Google MAP
《周辺のオススメスポット》
【都立東白鬚公園(墨田宿跡)】
「当地は古東海道の渡河地で、平安時代の末頃には墨田宿が成立していたといわれています。墨田宿は、治承四年(1180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。
また、室町時代成立の『義経記』には“墨田の渡り両所”と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。
対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。
それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。
なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した墨田宿は、そうした伝説を育む場でもあったようです。
平成二十五年三月 墨田区教育委員会」案内板より
コメントを残す