【番外編】長福寺
どうも、はじめて訪れるところの“入口”ミスりがち。
お寺の“奥”といえば、お墓…墓地の中にはさすがにお邪魔はしないけど…
明るくて、居心地(?)よさそう…
永くのびた表参道の途中…ふいに猫さん登場。
ひとしきりスリスリと足にまとわりついてから、本堂の方へ…少し進んでは振り返り…を繰り返してる。もしや…!?案内猫さん???
ごめん…今、そっちから来たのよ………
と、“正しい方向”からの新たな参拝者さんがやってきたら、こちらは見捨て(?)られ、その人たちに擦り寄り、奥へ奥へと案内してった………
あぁ…やっぱり、“表”から来ないとだめね…(2016.3撮影)
《長福寺の板碑一括》八千代市指定文化財 民俗文化財(有形民俗文化財)
「米本長福寺の山門を入った左手奥の山林と、それに続く隣家裏山の斜面から出土した板碑で、断片を含め20点以上あります。
これらの板碑は武蔵型板碑といわれる緑泥片岩製の卒塔婆で、供養塔の一つと考えられています。高さ約50センチ、頭部は三角で、表面には主尊を示す梵字(種子)や、建てられた年号等が刻まれています。内容の確認できない断片や無刻のものもありますが、阿弥陀一尊の種子が十六基、阿弥陀三尊の種子が刻まれたものを二基確認しています。また、種子の下には蓮華座が刻まれ、中には荘厳具の花瓶が刻まれたものや、種子に金箔が施されたものもあります。
年号をみると、文正2年(1467)が最も古く、明応(1492〜1501)や永正(1504〜21)等、戦国時代初期のものが多く、最も新しいもので享禄(1528〜32)の年号が刻まれています。
長福寺は米本城主村上氏の菩提寺といわれており、願文や供養者名等は彫られていませんが、このあたりに住んだ武士等、米本城にも関係する人々が建てたと考えられ、文献史料の少ない中世における当時の信仰等を知る重要な史料です。
昭和57年3月 設置
平成26年10月 改修
八千代市教育員会」境内案内板
《戒壇石(銘・禁藝術賣買之輩)》八千代市指定 有形民俗文化財
「米本山長福寺の山門左側に建つ、戒めを説く石碑のことで、結界石とも言います。天保9年(1838)に建てられ『芸術売買の輩を禁ず』と読みます。高さ2メートルもあり、県内には長生郡長南町全応寺に類似した石碑が一基あるのみと言われています。
この言葉は曹洞宗の常済大師の書かれた『坐禅用心記』に出てきます。ここでいう芸術売買の輩とは今日の芸術家のような文化人のことではなく、旅芸人か物乞いまがいの門付けの人を指し、寺の境内で大道芸を見せ物商売にすることを禁じている訳で、禅寺の風格を浮き彫りにしています。
八千代市教育委員会
指定 昭和53年11月11日」境内案内板
《伝・村上綱清の墓石》八千代市指定文化財 民俗文化財(有形民俗文化財)
「この五輪塔は米本城主村上綱清の墓石と伝えられ、江戸時代に書かれた『佐倉風土記』(亨保7年(1722))には“村上綱清墓、米本長福寺に在り。綱清、民部大輔と称す。天文弘治年間(1532〜58)、米本城主と為り、永禄元年(1558)3月13日自殺す。”とされています。また、五輪塔がある長福寺は、村上氏の菩提寺として創建されたといわれています。
五輪塔の高さは145センチメートル、石材は軟砂岩。火輪の突出部が四隅とも欠けています。地輪部分には銘文があり、拓本によると上のような回向文が見られます。
五輪塔の建立年代は不明ですが、綱清の供養のために後世に建てられたと考えられます。
昭和57年3月 設置
平成26年3月 改修
八千代市教育委員会」境内案内板
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