銀杏岡八幡神社
浅草橋駅(JR総武線&都営地下鉄浅草線)からすぐ、江戸通りの一本裏にひっそりと…背の高いイチョウの木漏れ日が気持ちのいぃ静かなお社。
駅からの道すがら眺めた町の風景はレトロでゆったりした雰囲気が漂っていて、神社の佇まいがしっくり馴染んでる。
境内社の此葉稲荷神社の朱がいぃアクセントになっていて、その朱色の鳥居の右手に、さらに小さいお社…さらにその隣…素朴な石を積んだ祠?左右に狐さん…そのかわいらしぃに思わずうっとりじっくり…(2014.5撮影)
駅からの道すがら眺めた町の風景はレトロでゆったりした雰囲気が漂っていて、神社の佇まいがしっくり馴染んでる。
境内社の此葉稲荷神社の朱がいぃアクセントになっていて、その朱色の鳥居の右手に、さらに小さいお社…さらにその隣…素朴な石を積んだ祠?左右に狐さん…そのかわいらしぃに思わずうっとりじっくり…(2014.5撮影)
《御祭神》
誉田別命、武内宿祢命
《祭礼》
6月第1土・日
【由緒】
「後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の場所であった、一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました、その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み“朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし”と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神徳に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請したしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています、そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公取され屋敷の跡地は町屋となり同15年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました
大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6メートル位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。
御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第一土曜、日曜日に執り行っています。」境内由緒書きより
浅草橋1-29-11 » Google MAP
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