神楽坂若宮八幡神社
東京理科大学神楽坂キャンパスの西…静かな住宅街の一角、道に沿うように細い境内。
全体的に新しめで、すっきりとした佇まいが都会の神社らしい雰囲気。
でも、社殿に続く階段脇のちょっと隠れたスペースに古そうな手水舎がひっそりと置かれていたり、手押しポンプがあったり…古さの名残りも…
江戸名所図会をみると、かなり大きかったようなのだけど、関東大震災で黒塀が、東京大空襲で御神体以外が焼失し、2年後に古材で仮社殿が建てられ、昭和37年に再建…どのタイミングで境内が縮小されたのかはよくわからなかったのだけど、今のこの社殿は平成11年に建てられたものだそうな。
焼け落ちても、古く朽ち果てそうになっても、再開発なんかで縮小されることになっても…なんとか再建しようとする神社…結構、あちこちで見かける。
神道とか宗教とか、たぶんほとんど理解してはいないのだけど、“心の拠り所”的な神社の佇まいが、やっぱり大好きだ(2018.1撮影)
全体的に新しめで、すっきりとした佇まいが都会の神社らしい雰囲気。
でも、社殿に続く階段脇のちょっと隠れたスペースに古そうな手水舎がひっそりと置かれていたり、手押しポンプがあったり…古さの名残りも…
江戸名所図会をみると、かなり大きかったようなのだけど、関東大震災で黒塀が、東京大空襲で御神体以外が焼失し、2年後に古材で仮社殿が建てられ、昭和37年に再建…どのタイミングで境内が縮小されたのかはよくわからなかったのだけど、今のこの社殿は平成11年に建てられたものだそうな。
焼け落ちても、古く朽ち果てそうになっても、再開発なんかで縮小されることになっても…なんとか再建しようとする神社…結構、あちこちで見かける。
神道とか宗教とか、たぶんほとんど理解してはいないのだけど、“心の拠り所”的な神社の佇まいが、やっぱり大好きだ(2018.1撮影)
《御祭神》
仁徳天皇、応仁天皇
《祭礼》
9月15日(中祭 5月15日、小祭 1月15日)
【由緒】
「若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平治の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応仁天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸城鎮護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葺破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る『若宮八幡神社』の横額源正哥謹書とあり揚蔀にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葺梁間二間桁行二間半勾欄付『神楽殿』の三字を扁し樵石敬書と読まる背景墨画の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治二年神佛混淆の禁令あるや別当光明山善門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は9月15日(中祭 5月15日、小祭 1月15日)に行われ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂1丁目2丁目3丁目の四ヶ町なり」境内案内板より
若宮町18 » Google MAP
《周辺のオススメスポット》
【神楽坂】
「坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。」案内板より【泉鏡花・北原白秋旧居跡(新宿区指定史跡)】
「泉鏡花旧居跡:このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花の旧居跡である。
明治32年、硯友社の新年会で神楽坂の芸姑桃太郎(本名 伊藤すず)と親しくなり友人から借金をして明治36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。
しかし師である尾崎紅葉に同棲が知られると厳しく叱責を受け、すずは一時鏡花のもとを去る。
この体験は『婦系図』に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルでもある。
同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え明治39年7月までこの地に住んだ。
北原白秋旧居跡:
泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。
白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約一年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。
当地に在学中の同42年5月に短歌『もののあはれ』63首を発表しており、このころから歌作にも力をそそぐようになった。なおこの辺りは物理学校(現・東京理科大学)の裏手にあたることから、『物理学校裏』(大正2年7月刊『東京景物詩及其他』)という詩も残している。」案内板より
《周辺の宿》
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