國府神社(市川)
今までに何度も前を通っていて、なぜか勝手に“大きな神社”を想像してた…「国府」という名前のせいか とも思ったのだけど…
通りに面した鳥居から続く階段の先が、よく見通せなかったせいかも…
すぐそばまでやっといけて、鳥居をくぐって 納得…というか、おや?というか…
正面に“神輿庫”…そこから振り返った斜め後ろにもう一つ庫(細い注連縄が下がっているので、かろうじて神社関連のものと思われる)。
その間に、新しめな鈴が下がった屋根付きの賽銭箱…そして、細く急な階段…
その階段を恐る恐るのぼってみると…境内だった…
東側は一段高くなってマンションがそびえ、西側は本殿わきすぐが崖になってるようで、立ち入り禁止に…
手水舎はすでに使えない雰囲気になっていたり、ちょっと寂しい雰囲気。
でも、狛犬さんたちは愛嬌あるかわいらしぃ顔立ちで、摂社の稲荷神社と天満神社の朱色の褪せ加減がいぃ感じ。
そして…お参りすませて帰ろうと振り返ると、日の光りを照り返す“江戸川”見えた…
ちょっと切なくてなんだかほっとする風景。(2013.12撮影)
通りに面した鳥居から続く階段の先が、よく見通せなかったせいかも…
すぐそばまでやっといけて、鳥居をくぐって 納得…というか、おや?というか…
正面に“神輿庫”…そこから振り返った斜め後ろにもう一つ庫(細い注連縄が下がっているので、かろうじて神社関連のものと思われる)。
その間に、新しめな鈴が下がった屋根付きの賽銭箱…そして、細く急な階段…
その階段を恐る恐るのぼってみると…境内だった…
東側は一段高くなってマンションがそびえ、西側は本殿わきすぐが崖になってるようで、立ち入り禁止に…
手水舎はすでに使えない雰囲気になっていたり、ちょっと寂しい雰囲気。
でも、狛犬さんたちは愛嬌あるかわいらしぃ顔立ちで、摂社の稲荷神社と天満神社の朱色の褪せ加減がいぃ感じ。
そして…お参りすませて帰ろうと振り返ると、日の光りを照り返す“江戸川”見えた…
ちょっと切なくてなんだかほっとする風景。(2013.12撮影)
《御祭神》
日本武尊
【由緒】
「伝えによると、景行天皇の皇子、日本武尊が東征のおり、下総の賊を平定してこの台地に陣を張りました。そして武蔵国に向かおうとしたのですが、下総と武蔵の台地の間には、たくさんの河川がデルタを形成していたため、舟を使わず浅瀬を渡ることはできないものかと思案しました。
このとき一羽のコウノトリが現れ、尊の前にかしこまって「私が浅瀬をお教えいたしましょう、どうぞ私について来てください。」と申しました。尊は大軍を率いてコウノトリの後に続き、難なく武蔵国の台地に着くことができました。
尊はコウノトリの功績をほめて、下総の台地をコウノトリに授けることにしました。このことから、この台地がコウノトリに与えた台地、即ち「鴻之台」と呼ばれるようになったと言います。(本来は下総国府の置かれた台地であるところから国府台の名称が起こったものです。)
本神社はこの伝承に基づいて、御祭神を日本武尊、そして「コウノトリの嘴」を御神体として、寛治元年(1087)2月8日の創建と伝えています。一時は「鳳凰大明神」と呼ばれたこともありましたが、下総国府に建てられた神社であるところから、国府神社と称されるようになりました。境内には稲荷神社、天満神社が祀られています。 平成4年3月 市川市教育委員会」境内由緒書きより
市川4-4-18 » Google MAP
《周辺のオススメスポット》
【下総総社跡(六所神社跡)】
千葉商科大学と国立国府台病院の間にある“国府台公園”。その中央に、一際目立つ大ケヤキがあり、その下に『下総総社跡の碑』がひっそりとある。遺構とか何もないのだけど、周りにある野球場やテニスコート、陸上競技場での歓声を背に、はるか昔そこにあったであろう社殿の姿や参拝に行き交う人々を思い描くのもちょっと楽しい。
市川市指定文化財。
「7世紀後半の日本は、天皇を中心とした法治国家をつくろうとしていました。そして北海道、東北地方の一部、沖縄をのぞく各地を60余国にわけ、国ごとに整備をすすめました。下総国は現在の千葉県北部を中心に、茨城県、東京都、埼玉県の一部にあたります。その国府(役所を核にした都市)は市川市国府台にありました。国府には政務や儀式をとりおこなう国庁があり、国庁を中心に国衛(官庁衛)がひろがっていました。下総国庁は現在の野球場付近にあったといわれています。
国司(国府の役人)は国内の有力神社を管理し、参拝する義務がありました。しかし、広い国内をまわるのは大変だったので、平安時代後半になると国庁ちかくに国内の神々をあわせてまつった神社がたてられました。その神社を総社・六所神社といいます。また国司がそのころよわまっていた影響力をとりもどすため、神の加護を得ようとしたともいわれています。
六所神社は明治19年に須和田に移転し、軍用地となったあとも「六所の森」としてのこっていました。また、六所神社跡周辺の地名は「府中」と呼ばれていました。
陸上競技場周辺を発掘した結果、神社そのものの遺構はみつかりませんでしたが、六所神社を区画していた溝跡がみつかっています。また、千葉商科大学内ではこの溝とともに、参道跡もみつかっています。こうした調査結果から、初期の境内地は「府中」の範囲にあたり、国衛の北東に設置されたことがわかりました。 2004年12月 市川市教育委員会」案内板より
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