諏訪神社(駒形)
というわけで、お参りだけして早々に撤収してしまったのだけど…ちらりと見えた拝殿の脇の狛犬さんがこぶりでかわいらしく…
それと…味のある色合いの拝殿に対し、パキッと鮮やかな緑色の社額が印象的で…
そんなこんな、今度改めてゆっくり拝見しにこよっと。(2014.5撮影)
「当社の創建は定かなことを知る事は出来ませんが口碑に依りますと『後冷泉天皇の御世である』と云われ又一説には『承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が当地に諏訪大社の御分霊を奉斎したのに始まる』とも云われています。
諏訪の信仰が関東に広まるのは鎌倉時代の中頃で当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは諏訪上社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである』と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を『武家守護の神』“吾妻鏡”として崇敬したのです。又後白河法皇の『染塵秘抄』にも『関より東の軍神』として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」。その後幕府の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり諏訪郡を得宗領とし諏訪上社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条得宗家の支援に依って諏訪大社の御分社が数多く関東に広まったものと考えられているのです。更に執権北条氏は『支配する所領地に諏訪上社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事祭祀を執り行なっていた』と云われています。『社史』に依れば『当社は諏訪上社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し年代は不詳ですが神官が数代にわたって奉仕してきた』と伝えています。又現在は執行されていませんがかつては『風祭り神事』を行っていたようです。
以上の点から当社は少なくとも鎌倉時代の中頃執権北条氏の力添えに依って、得宗被官諏訪氏によって勧請されたものと見られます。そして鎌倉時代以降浅草寺の一院との関わりをもつようになります。『浅草寺史』に依れば『当社数代の神主奉仕のあと浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院が別当として守ってきた事』が著されております。この点については浅草寺が後北条氏から寺領として五十貫文を拝領しており『鈴録』に依れば『十貫は百石百貫は千石也』と記されていることから五百石となりその寺領内に当社が鎮座していたからである。
江戸時代における当社の史料は『修善院呈書』とともにかなり残されています。御神体は『丈五寸木造束帯坐像』で本地仏は『普賢大菩薩の立像』であると伝えられていますが今はありません。次いで当社の所在地について見て行きますと当地は南北朝時代の『古文書』(正宗寺文書)に『武蔵国石浜墨田波・鳥越三ケ村事』と記されている『鎌倉公方御教書』が残されている事から当時は墨田波(隅田川沿い)と呼ばれていた事が分ります。年号に貞和二年(1346)と見えるのでこの頃にはそう呼ばれていたと考えられます。そして江戸時代をむかえると当地は『すわ丁』となります。何時町屋になったのかは不詳です。少なくとも後北条氏以来、浅草寺領であった訳ですからその後であった事は確かな事である『御府内備考』には『諏訪社が所在していたので諏訪町になった』と記され『江戸切絵図』の寛文11年(1671)の『浅草絵図』にも『諏訪大明神』と記されており当社の位置は現在の鎮座地とまったく変っていません。又『再訂江戸鹿子』には『近年度々の回禄によりて社領は形の如くなれども御神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀るとぞ』と記され社殿は明神造りで右下の『江戸名所図会』見られ社地は今の約三倍の広さであった事が『江戸町づくし稿』に記されています。」境内由緒書きより
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