【番外編】待乳山聖天
おまつり自体は1月7日らしいのだけど…(あとで知ったこと…奉納された大根で作った風呂吹き大根をいただけるらしぃ)
お札やお守りなどにならび、奉納のための大根がいただける(250円)…太くて白く美味しそうな大根に目が釘付け…そう、この聖天さまへの奉納品は、大根。
境内のあちこちに大根(二股大根が二本)と巾着袋が印されていて、なんでもこれは“聖天さまの大きなご利益”を端的に表したものだそぉな。
…なんてことを、いただいた冊子で読んでいたら、後からいらしたおねえさまが、大根一本頂いて小脇に抱え、階段を早足でのぼって本堂の中に消えてった…あぁ、気になる。
本堂でお参りをしてから、本堂まわりを散策…
ん?
近代的な門かと通り過ぎちゃいそぉになった屋根付きの一角…ふと目がとまる…ん?さくらレール?ご自由にお乗りください…?
スロープカーですと?使っていぃの?…と、張り紙を眺めていたら…
ご住職さん?お寺の方が、にっこり微笑みながら「どうぞ、お使いください」と。
中のボタンで行き先押すと動くらしぃ…うわっ、楽しそぉ〜
のちほど、使わせていただきます!
本堂の後ろ、北側にお稲荷さん。鳥居が建っていて、かわいらしぃ神狐さんも居る。
その手前には、すらりとした存在感ある“宝篋印塔”。
お?…今更、気がついた…水桶が巾着袋型だっ
さて…そろそろ移動…
というわけで、“さくらレール”!!!!
停留所(?)は、三ヶ所…ここ本堂と途中の寺務所、そして駐車場。
ほんの短い距離だけど、階段だとそれなりの高さだし…お年寄りや足腰の弱い人にはありがたいものに違いない…それに…なかなかに、たのしぃし〜っ
駐車場で降りて、ついでに目の前のお手洗いをお借りする…
想像以上にキレイで、ウォシュレットどころか、便座もほかほか…至れり尽くせり…ありがたいことです…
なんだか、心穏やかになるお寺で、ほんと居心地よく…また是非寄らせていただきます!!(2016.12撮影)
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“浮世絵展『待乳山と隅田川』”(待乳山聖天本龍院・2017.9.16〜10/4)へ。
浮世絵をじっくり拝見するとともに、境内もゆっくり歩きまわって堪能。
今回は、ツレが大根も奉納…『よく料理に使うしぃ〜』って、ソレ目的違うと思います…
でもまあ、何事にも感謝するってのは大事なことか…よしとしよう。
で、大根を抱えて本堂にあがってみると…えぇと?どうするんだろ?
とりあえず、正面の“大根の山”に納めてから、きょどきょど…
畳部分の後ろ半分くらいに、10数人くらいの人らが座って、お経などを読んでたりもしてらっしゃる…法要かなんかが始まる、とか?
どうやら、合同で何かというのではなく、それぞれが拝んでいるらしぃ。
そういった熱心な方々の前面に座るのも憚られる雰囲気で、早々に堂外へ。
それにしても、皆お若そうで…しかも、パワースポット巡り的なライトなものじゃなく…
帰りはやはり“さくらレール”に乗っちゃう。その横の前回訪れたときは通行止めになっていた階段もちょいと気にはなったのだけど…
こちらは、ほんとに何度も訪れたくなるお寺だな と、改めて感じたわけで…次は、来年の“大根まつり” かな?(2017.9撮影)
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大根まつり!!
法要終了後の11時半頃から整理券を配布(2000食限定)…ということなので、
その時間を目指し、気合入れて出動っ
到着した時点ですでに結構な人出…大人気なんだな…
ちなみにこの“大根まつり”は、聖天様のお供物である大根、そのお下がりを頂くことでお徳をそっくり頂戴、身体と心の健康を得よう!ってことだそうな…
お参りしてから整理券受け取って、1時間半ほど並んで、待ちに待った大根…
輪切りで3cmくらい、あっつあっつしみしみじゅわじゅわ…とろりとかけられた柚子味噌が、もぉ〜美味しい!!
お神酒もいただき、寒さも吹き飛ぶ!!
境内で出店していた大根の形のおまんじゅうをお土産に…
次はいつお参りにこよぉ…ふと帰り道で既に考えてたりしてる…(2018.1撮影)
「待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、『聖天さま』として祀ったといわれる。
ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡米の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。
平成11年3月 台東区教育委員会」境内案内板より
《待乳山と歓喜天鎮座のいわれ》
「当山は推古天皇の御世、地中から忽然と湧き出た霊山で、その時、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。
それから6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われたとき、十一面観音菩薩はその慈悲の眼をお開きになり、即時の救済をはかって大聖歓喜尊天の姿となって現れたまい、天下万民の苦悩をお救い下さった、これがこの山に尊天は鎮座が鎮座ましました起源であるといわれています。
その後、文徳天皇天安元年(857)、天台宗中興の祖、慈覚大師円仁、東国巡行の折、当山に参籠して21日間の浴油の修行を行い国家鎮護の祈願され、さらに供養法にのっとり、赤栴檀を用いて十一面観音菩薩の尊容を彫刻されたと伝えられています。
開山以来、長い歴史の中で、多くの人々の篤い信仰を集めてきた当山は、現在に至っても、まさに霊山と呼ぶにふさわしい雰囲気を有し続けております。
そもその『大聖歓喜天(聖天さま)』とは、密教における普遍の尊格『大日如来』の究極の方便の姿、また観音菩薩の化身として、我々の智慧浅き求願を、世のならいにしたがって成就に向かわしめ、ついには正道へ導こうというご誓願をお持ちになっておられる尊天であります。夫婦抱立のお姿は、真俗の二義和合を表し、自他調和の尊さを知らしめ、すべての衆生を洩れなく救おうというご慈悲のあらわれであります。」
《浴油祈祷》
「浴油祈祷は、聖天様を供養する最神秘の修法です。
当山では、毎朝欠かさず行われ、諸事円満と、ご依頼の皆様の速やかな心願成就を祈願いたしております。
申し込まれますと、ご依頼の日から七日間修法いたした後、御札あるいはお守りが授与されます。」
《銅造宝篋印塔》(台東区有形文化財)
「宝篋印塔は『宝篋印陀羅尼経』という経典に基いて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が制作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、11代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
銅造の宝篋印塔は全国的にも恒例が少なく、とくに区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
平成14年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
平成19年3月 台東区教育委員会」境内案内板より
《道灌稲荷跡》
「かつて当山境内には、太田道灌勧請の『道灌稲荷』が祀られていた。
文政8年(1825)、本龍院より江戸幕府に提出された『寺社書上』に『一、稲荷社、道灌稲荷と唱候、四尺一間』と見て、また、かつて当町内の木戸には『道灌稲荷の守護』の札が貼られ、地域の人々より尊崇を受けていた由が知れる。
人望篤く、文武両道の部将として名を馳せていた太田道灌(1432〜86)は、文明8年(1476)、鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて詩歌管弦の宴を開いている。自らの稲荷尊信仰と景勝の待乳山に浅からぬ因縁を窺うことができる。」案内板より
《糸塚》
「この糸塚は元治元年十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
昭和63年4月 六世杵屋勘五郎 記」案内板より
《戸田茂睡歌碑》
「茂睡は元禄の頃活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた、江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和30年拓本をもとに再建された」案内板より
《天狗坂》
「昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
天狗坂 夕木枯の おもいでに 久保田万太郎」案内板より
「歌川広重“東都名所真土山之図” 文政〜天保年間(1818〜1844)
待乳山は江戸時代には隅田川を一望できる景勝地として、多くの浮世絵に描かれました。向島から当山を望んだ真土山之図には樹木が茂る当時の天狗坂が描かれています。」境内案内板より
《旧 浅草聖天町、浅草聖天横町》旧町名由来案内
「本町の起立年代は不詳である。寛文図に『聖天丁』と記載があるので、かなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あるいは待乳山と号し、浅草寺の子院である。
待乳山は墨田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。
『浅草聖天町』昭和23年(1948)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。
『浅草聖天横町』浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代はわからないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治5年(1872)、浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。」案内板より
台東区側から墨田区の方をみると、ほぼ正面にスカイツリーがすっきり見える。すっきりとした直線的な姿が美しい橋。
がこの“言問橋”…東京大空襲のときに、逃げ惑った人々が多く犠牲になった場所だったとのこと。
現在のこの橋は、関東大震災後の復興事業の一環で昭和3年に架けられたものだそうだが、欄干の親柱などに、当時の痕跡が残っているという。
解説板には、
「ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。
この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。」とのこと。
解説板には、
「隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々くぉ仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のものに忘れ去られようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。
昭和61年3月 台東区」
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